教 会 案 内 牧 師 紹 介 定 期 集 会 特 別 集 会
定 期 メ ッセージ  シ ョ ー ト メッセージ 福 音 の 話
行   事 教 会 新 聞 掲 示 板 リ ン ク 事 務 室


2019年6月23日
絶対主に大胆に近づいて』

ヘブル人への手紙10:32~39


(起)へブル10章35節の御言葉から、「大胆に絶対主に近づき、『絶対主のために

一つでも二つでもやらせて下さい』という心を表して行くこと」を学んで行きたいと思い

ます。


(承)さて、35節を見ますと、「あなた方は自分の持っている確信を投げ捨てては

いけません。その確信には大きな報いが伴っているのです」とありますが、イエス・キリ

ストを信じる者たちにとっての「報い」とは一体何でしょうか。それは、「生ける絶対主

の都」(へブル12:22)、すなわち、聖なる都エルサレムに入れられることです。

確かに、今現在の私たちは罪人のままで、自分自身の罪を嫌と言うほど覚えさせられて

います。しかし、その状態をそのまま認めて悔いて行くならば、絶対主は、「悔いし砕か

れた心を蔑まない」と言って下さり、イエス様の贖いの故に、「もう二度とお前の罪と

不義を思い出さない」と言って、私たちを受け入れて下さるのです。だからといって、

「私たちは何でもしてもいい」と言うわけではありません。むしろ、私たちは、絶対主の

そのお言葉があるからこそ、
素直に「自分自身の負けを認める」ことができるのです。

そして、負けを認めた者には、「悔いし砕かれた心を蔑まない」と言われる絶対主からの

平安が与えられるのです。それは、イエス様の救い、贖いがあるが故です。私たちは、

この確信を投げ捨ててはいけません。そして、自分の負けを認め、悔いて行くところから

離れてはいけません。なぜなら、
絶対主が、「もし自分自身の罪を自覚し、悔いし砕かれ

た心を持って行くなら、わたしは二度とお前の罪と不義を思い出さない」と言って下さった

お言葉は、新訳のこの時代にも有効だからです。
そして、私たちが「生ける絶対主の都」

に入れられる時には、私たちはこの罪の体を完全に脱ぎ捨て、新しい御霊の体を頂いて

「生ける絶対主の御国」に入るのです。これが、私たちに与えられた
「約束」であり絶対

主の
「永遠の計画」です。この二つの不変の事柄は決して変わることのない絶対主の誓い

です。


(転) このことが分かったならば、私たちは大胆に絶対主に近づこうではありませんか。

こんな私たちでも、イエス様という素晴らしい完全な生け贄が捧げられたことによって、

絶対主に近づくことのできる者とされたのです。それなのに、「私のような者はダメだ」

と言って、いつまでもその中に留まっている者は、「悔いし抱かれた心だけでいい」と

言って下さった絶対主の言葉を信じていないのですから、「信者」とは言えません。絶対主

が「お前の罪と不義を思い出さない」と言って下さった
根拠は、イエス・キリストの贖い

にあるのです。ですから、「イエス・キリストを信じた」と言うならば、へりくだって、

「心を開いて大胆に絶対主に近づくべき」です。絶対主は、罪人である私たちのことを

十分ご存知の上でそのように言って下さっているのですから、私たちはその言葉を感謝し、

へりくだって受け留めれば良いのです。それなのに、いつも自分自身の現状を見て、

「自分は弱いからダメだ」、「自分を変えて行かなければダメだ」と考えるのは、未信者と

同じ発想です。罪人は、自分でいくらあがいてもどうにもならないのに、それでもなお自分

の力で何とかしようとし続けるのは、ルシファーが持っている反逆の心と同じです。

ルシファーには、悔い改めがないのです。しかし、私たちはもう、その悔いない心から

離れましょう。絶対主は、イエス様の贖いの故に、私たちのような罪人を生ける絶対主の

都に入れる計画を立てて下さったのですから、「私のような者はダメです」と言う拗ねた

心ではなく、むしろ心を開き、へりくだって絶対主に近づいて行きましょう。そして、

前向きに一つでも二つでも絶対主ためにやらせて頂こうではありませんか。
絶対主のため

にこの命と体を使って頂けるのなら、私たちはもうこの世に未練はありません。
これが、

イエス様の救いを信じ受け取ったクリスチャンの献身の心です。クリスチャンは、皆この

心に立つべきです。 


(結) こういうわけで、
クリスチャンの目差すところは「生ける絶対主の都」であり、

そこに入れる根拠は、イエス・キリストの贖い
です。この確信を、私たちは最後まで

持ち続けましょう。そして、大胆に絶対主に近付き、絶対主のためにできる限りのことを、

やらせて頂こうではありませんか。しかし、これから始まる患難時代では、私たちが絶対主

に心を注げば注ぐほど、悪魔の妨げは激しくなり、世の人たちからは蔑まれます。へブル

10章33節に記されているように、「ある時は誹られ、苦しめられて見せ物にされたり、

このような目に会った人々の仲間にされてしまう」ということが起こってくるかもしれ

ません。しかし、そこで私たちは、「人から誤解されたくない」と思って、その場から

逃げ出そうと必死になる必要はありません。たとえ この地上で財産を奪われても、或い

は命を奪われても、私たちの宝と故郷は天にあります。だから、私たちは地上にしがみ

着く必要はないのです。どうか、私たちはこの確信を最後まで持ち続け、
大胆に絶対主に

近付き、「絶対主のために精一杯やらせて下さい」という心を表して行きましょう。


そして、「絶対主のために働きをさせて頂いた」という実のある生涯を全うさせて頂こう

ではありませんか。


 *メニュー
      * 教 会 案 内
      * 牧 師 紹 介
      * 定 期 集 会
      * 特 別 集 会
      * 定期メッセージ
      * ショートメッセージ
      * 福 音 の 話
      * 行       事
      * 教 会 新 聞
      * 掲  示  板
      * リ  ン  ク
      * 事  務  室