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2019年4月7日
人間の救いは絶対主の為』

黙示録19:6~8


(起)黙示録19章6~8節の御言葉から、「絶対主の万物の創造の目的は、『永遠の聖なる都・

新しいエルサレム』であったことを悟り、聖徒はその中に組み込まれる聖なる都のパーツであること

を学び、人間のための救いではなく、絶対主の為の人間の救いであったことをお話して行きたいと

思います。

(承)さて、7節を見ますと「小羊の花嫁」とあります。「花嫁」というと、どうしても「個人

のこと」として意識し、「信者一人一人が小羊の花嫁になる」と考えがちです。また、「キリストの

教会そのものが小羊の花嫁」であると考える人もいます。しかし、実はそのイメージは間違って

います。21:9を見ますと、はっきりと何が「小羊の花嫁」かが記されています。「さあ、来な

さい。小羊の妻なる花嫁を見せてあげよう」とあり、「大いなる都、聖なるエルサレムが、絶対主

の御許を出て天から下って来るのを見せた」とあります。ですから、「小羊の花嫁」とは、「聖なる

都エルサレムそのもの」であることを聖書は記しています。聖書は花嫁を単数で記しています。

ということは、小羊の花嫁を、「信じたクリスチャンたちとか、プロテスタント教会である」と

考えるのは、間違っています。また、この「聖なる都エルサレム」は、「永遠から永遠まで存続

させる」というのが絶対主のお考えである(黙22:5)ことが分かります。ですから、この天地

は消え去っていくものですが、「聖なる都」は永遠のものとして絶対主が創り上げて行くことが

創造の目的なのです。この計画のために、まず天地を造り、そして人間を創られました。そして、

私たちは聖なる都に組み込まれて行くパーツとして、「小羊の花嫁」すなわち「聖なる都を構成

するパーツ」として、存在させられたのです。だからと言って、全ての信者が聖なる都に入る訳では

ありません。聖なる都に入る人々は、黙示録の手紙の中にある「勝利を得る者」たちのことです。

ですから、生温い信者では入ることは出来ず、それでは吐き出されてしまいます。しかし、「勝利

を得る者」が入れられたとしても、私たちのための聖なる都ではなく、絶対主と小羊が礼拝されて

いく為の栄光の場として、絶対主がお創りになったものです。ですから、救われたからと言って、

クリスチャンが主人公ではなく、私たちは、絶対主のご計画の中に組み込まれた一つのパーツに

過ぎません。幾ら、小羊の命と引き替えに選ばれた者であったと言えども、組み込まれたという

ことは哀れみです。ですから、どんなに感謝してもし尽くせない、幸いの場であることは確かです。

これは、被造物としての冥利に尽きることです。ですから、そこに入れて頂いたことが、
信仰の

勝利の成果だと、決して誇ることはできません。
逆にそこに入れて資格は、キリストの贖いと聖徒

自身の「悔いし、砕かれた心」、「霊的な滅私奉公の心」を持った者のみが、入れられるに相応しい

資格です。


(転)では、この究極の真理を示された今、私たちはどのような信仰の心得を持つべきでしょうか。

それは、「自分たちが主人公ではない」ということです。私たちは無意識のうちに自分は救われたの

だから、「救われた自分が主人公で小羊の花嫁だ」と、安易に考えてしまい、絶対主が天地万物を

造られたのも、そこに人間を入れる為に創造し、救って下さったのだと、どこまでも人間中心に

考えてしまいます。また、イエス様がこの地上に来られたのも、すべて自分たちを救うためだ、

という感覚さえ持ってしまっています。だから、「絶対主は人間の幸いのために動いて下さる方だ」

と勝手に思い込んでいるのです。その感覚は未信者も信者も同じで、人間のための神、人間のための

絶対主という意識が、知らないうちにすり込まれ、自分が「ご利益」を受ける主人公になって

しまっているのです。だから、人間はどこまでも自分中心に物事を考え、自分の満足、自分の生き

甲斐を追及し、そのために絶対主を利用して行こうとするのです。しかし、この究極の真理を知ら

された私たちは、その考え方をガラッとひっくり返されなければなりません。絶対主は、確かに

この世界の歴史を動かしておられますが、決して人間を中心に動かしておられる訳ではありません。

それらはすべて、絶対主の計画の中で、絶対主の聖なる都を築くことが目的であって、人間の幸せ

のために絶対主が動いているのではないのです。ということは、「私たちは主人公ではない」という

ことを明確にすべきです。ならば、私たちは自分自身の満足のためではなく、絶対主を第一にして

生きて行くことです。すなわち、絶対主の国と絶対主の義を第一に追い求め、「自分の満足なんか

どうでもいい」と言える心を持たなければなりません。この心こそ、自分の命さえも捨てて絶対主

に仕えて行こうとする、「勝利を得る者」の心です。


(結) しかしながら、私たちはこのことが分っていません。だから、本当に自分の命を犠牲に

して絶対主に仕えて行くことができないのです。なぜなら、「自分の満足の為に生きる」という

気持ちが、生まれながらに私たちの内にあるからです。しかし、私たちが主人公ではないことが、

はっきりと分かりました。ならば、
「絶対主に仕えて行く、霊的な一本道で行きたい」と思います。

でも、それをすることができない「弱い自分」と言うことも嫌と言うほど味わっていますから、

私たちには聖霊の満たしが必要です。
絶対主に、「否が応でも、聖霊の力を下さい」とお願いする

しか、この一本道を通して行く道は他にありません。
私たちは霊的な心を追求して行きたいと思い

ます。ならば、あとは本気で絶対主にひざまずき、祈り求めて行こうではありませんか。そして、

絶対主から力をいただいて、絶対主の永遠のご計画のためのパーツとして用いて頂こうではありま

せんか。 



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