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2019年2月24日
命も心も絶対主のもの』

第Ⅱコリント1:8~11


(起)第Ⅱコリント1章9節の御言葉から、「自分の命と自分の心は、自分のものです」という考え

は、罪人の(ゆが)んだ心から出た間違った考えであり、人間の命と心は、「絶対主が目的を持って

創られ」、その
命の所有権は、「当然創った方のものであり、私たちに命の所有権がある訳では

なく」
、また必然的な道理として、絶対主の御心に反してこの命を勝手に使えば、「命は破壊され

滅ぼされるだけだ」ということを、学んで行きたいと思います。

(承)さて、パウロはここで、「私たちは極度なまでに、耐えられないほどの圧迫を受け、生きる

望みさえ断ち切られ、心の内で死を覚悟するほどの苦難を受けた」と語っています。それは、

その経験があまりにも耐え難い経験であったため、死を覚悟させられ「自分たちが自分自身を頼み

とすることができず、ただ無力な人間の姿を思い知らされて、
ただ、絶対主を頼みとすることしか

できなかった」
と、正直に告白しています。それは、パウロがこの経験を通して「自分は、自分に

依り頼むことが一つもできない者である」ということを思い知らされるためでした。(1:9)。

これまでのパウロは、「自分は律法の許に歩み、絶対主の御心に適った者として歩んでいる」

という自負心を持っていました。しかし、自分自身の心の強さを誇りに思っても、生きる望みさえ

失ってしまうほどの苦難に会えば「いくら自分の心が強くても、それだけでは越えられない」

ということを経験し、自分自身の強がりは全く()てにならないということを味わったのです。


(転)では、私たちはどうでしょうか。私たちも同じようなことを経験してきたはずです。

例えば、人の為に心を使って良いことをして来たつもりでも、それが相手にとっては、かえって

迷惑な「自分よがりな義を押しつけて来ただけだ」と、思い知らされるような経験を味わって

います。ということは、自分自身の正義感は()てにならないということです。なぜなら、

私たちの心の中には、魔物が潜んでいるからです。それは、エバがルシファーから(そそのか)されて

木の実を食べたところから始まっています。エバは、絶対主から「その木の実を食べると死ぬ。

だから食べてはいけない」と言われていたにもかかわらず、「この木の実を食べると、目が開かれて

絶対主のようになれる」というルシファーの誘いにはまり、「そんなすごいものだったら食べたい。

もし絶対主のようになれるのなら、食べたい」と思い、ルシファーの誘いに乗り、ついその木の実

を食べてしまったのです。何故、こんなに簡単に(そそのか)されてしまったのでしょうか?

それは、エバが自分の心は、自分のものだと考えていたからです。その時エバの心には、当然

「食べてはいけない」という思いもあったことでしょう。しかし、「自分は食べたい」と言う思い

の方が勝ってしまったのです。なぜなら、「自分の思いは、自分のものだ」という考えがあった

からです。ですから、私たちも最終的に自分にとって都合のいい方を選択するのです。すなわち、

絶対主の言葉を無視し、絶対主に従うのではなく、
自分の心に従うのです。それは、自分の心は、

自分のものだという判断から出たものです。
その結果、彼女はエデンの園から追い出され、絶対主

の裁きを受けました。実は、私たちはそんなエバの子孫ですから、生まれながらに、自分の思いは

自分のものだと考え、自分の心のままに生きることが当たり前になっています。私たちは生まれた

時から、絶対主の心に従うという意識は全く持ち合わせることなく、自分勝手に生きて来ました。

それは、罪にまみれた親の遺伝子を受け継いでいたからです。このことが分かれば、「自分の

勝手な心に従っていてはダメだ」と言うことが分かります。このことが分かって、始めて「間違い

のない絶対主の御心に従う」という結論に達するはずです。しかしながら、私たちは尚、自分自身

の心を優先し「自分の気持ちがついて行かないので出来ません」と言い切り、頑なな心に

留まっているのが現実です。それは、「自分の心は自分のもの」という強い考えに支配されて

いるからでしょう。しかし、それは間違っています。
私たちの心は自分のものではなく、絶対主

のものです。
なぜなら、私たちは命だけでなく、心も絶対主によって創られたからです。絶対主は、

私たち一人一人を目的に従って創られました。ならば、
私たちはどこまでも絶対主の目的に

合わせ、絶対主からの使命を自覚して、そのために命と心を使っていくべきでしょう。


(結) これまで、毎週メッセージを聞いて来ても、なかなか絶対主に従う一歩を踏み出せな

かったのは、「自分の心は自分のもの」と思い込み、「メッセージは分かっても、心がそれに

同意できないから」という思いが勝っていたからです。しかし、その心は間違っていたことに

気付いてください。この命は、間違いなく絶対主が造られた驚くべき仕組みが施された命です。

同じように、この心も絶対主がご自分のように創られた心です。ならば、絶対主が創られたもの

であれば、当然私たちのものではなく、創ったお方のものです。それが分かったならば、私たちは

この心を自分のために使うことはできません。この命も心も、絶対主の目的のために用いなければ、

壊されて、滅ぼされるだけです。すなわち、
「絶対主が言われることは分かるが、自分の心が

ついて行かないから、出来ません」などという恐ろしい言い訳は通用しません。


むしろ、私たちはこの命を絶対主の目的のために使い、心は絶対主の心を汲んで、同意して行く

ために使うべきです。そうすれば、絶対主は私たちを創ったことを、あのノアの時代の時のように

後悔されず、「よかった」と言われます。どうか、この道を大胆に踏み出し、
絶対主の目的に

適った心の使い方をして、残りの生涯を全うしよう
ではありませんか。   


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