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2019年11月24日
心を入れ替えて、我を正しく使う

使徒の働き19章21~22節


(起)「私たちの心を入れ替えて、絶対主の前に自分自身の我を正しく使って行く」という

ことを学んで行きたいと思います。


(承) さて、パウロは、第三回の伝道旅行をひとまず終えて帰ろうとした時に、「エルサレム

に戻り、その後ローマに行きなさい」という御霊の示しを受けました。しかし、パウロにとっ

て、エルサレムに戻るということは大きなリスクを負うことでした。なぜなら、以前エルサレム

で福音を語った時、パウロは人々から迫害を受けて殺されそうになった経験があるからです。

このエルサレムでは、彼を好意的に見ている人は一人もおらず、むしろ、「律法の行いによら

ず、ただ信じるだけで救われる」と、「律法を否定するようなことを教える者を見過ごすわけ

にはいかない」と言うのが、ユダヤ人の大半であったからです。そこへもう一度行けば大変な

目に遭うということは分かり切っています。だから、人間的な思いでは、「そんな所にわざわ

ざ行きたくない」と思うのが正直なところです。ところが、パウロはその肉の思いを横に置き、

御霊の示しに従ってエルサレムに行くことを決心したのです。

 しかし、21章で、ツロやカイザリヤに立ち寄った時に、「エルサレムには上って行かない

ように」と、弟子たちや預言者アガボたちから忠告を受けました。しかし、その時でさえも、

それらの忠告をすべて退け、「どうしてあなた方は、泣いて、私の心を挫くのですか。私は、

主イエスの御名のために縛られるだけでなく、エルサレムで死ぬことさえも覚悟しているので

す」と、はっきり言いました(21:13)。それは、「困難に遭うと分かり切っている所に、

わざわざ行く必要はない」という、肉の声をあえて横に置く作業をパウロがしたからです。

人間というのは、自分を守るための道を見出そうと、無意識のうちにあれこれ考えます。

ところが、パウロは、自分自身の肉の中から込み上げてくる肉の思いをあえて横に置き、絶対

主のお考えだけを心に留めました。そして、「自分がどんな目に遭おうが、絶対主は『行きな

さい』と言われているのだから、自分は行く」と決心し、彼は自分の走るべき行程を走り尽く

そうとしたのです。


(転) このことは、私たちにとっても他人事ではありません。どういうことかと申しますと、

将来、私たちもパウロと同じ道を通って行くことになるからです。患難時代に入って行けば、

私たちもやむを得ず困難の中に入り込んで行きます。どんな迫害を受けるのか、また、どんな

辱めを受けるのか、それはその場にならなければ分かりませんが、あらゆる困難が私たちを

待ち受けているということは確かです。だから、まさにパウロと同じように、「自分にとって

苦難しかない」ということが分かった上で、その中に飛び込んで行くのです。その中で、パウロ

のように最後まで信仰を全うし、自分の走るべき行程を走り尽くすためには、パウロがやった

ように、
自分の肉の思いをあえて横に置き、心を入れ替えるという作業をして行く必要があり

ます。私たちは、自分にとって都合のいいことは受け入れますが、都合の悪いことは聞き流す

という(くせ)が当たり前のように身に着いています。このままでは、患難時代に入り、困難が

起こってきた時に、「何でこんな目に遭わなくてはならないのか。私はこんな苦難を受ける

ために信じたわけではない。信じたことによってこんな目に遭うのなら、もう私はやっていけ

ない」と、絶対主に背を向けてしまう危険性があるのです。だから、今、私たちは自分の肉の

思いを横に置いて、絶対主の考えを心に入れるという、
「心を入れ替える作業」をしなければ

ならないのです。これは、決して自動的にはできません。それをやるのは自分です。多くの人

は、「自分自身の不安な気持ちや臆病な気持ちがすっかり取り去られて、晴れ晴れとしたら、

自分は絶対主に従うことができる」と思っていますが、それは大間違いです。自分にとって

リスクのあることは避けたいと考えるのが人間ですから、いくら時間をかけても、不安な気持

ち、ネガティブな考えというのは自然には無くなりません。それは、悪魔がその肉の思いを

利用して、私たちを絶対主から引き離そうとしているからです。だから、私たちは、自分の肉

の思いを横に置くという作業を、あえて自分自身がするしかありません。そしてたとえ、それ

が自分にとって嫌なことであろうが、絶対主が言われるのなら、そのとおり受け止めて行くの

です。それを今のうちに当たり前のようにしておかなければ、私たちは患難時代で信仰を全う

することはできません。


(結) 私たちの我は死ぬまで消えません。しかし、その我を正しく使って、「絶対主の考え

に従う」ということに徹して行けば、それは絶対主に喜ばれます。パウロは、そういう意味で

「正しい我」を通した人です。私たちも、どこまでも 絶対主に従い通すために、「正しい我」

を使って行こうではありませんか。「我があったら駄目だ」ということではなく、自分を守ろう

とする我は横に置いて、
「絶対主に従う」という「正しい我」を向けて行けば良いのです。

どうか、私たちの心を入れ替えて、絶対主の前に、自分自身の我を正しく使って、絶対主に

懸けて行
こうではありませんか。


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