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2018年 NO.644


西郷隆盛の受洗について


  西郷隆盛が洗礼を受けたのは1873年(明治6年)、横浜のプロテスタント宣教師であった

ジェームズ・バラ師からでした。その当時の幕末の志士たちは、人生の道しるべとして陽明学を

学んでいました。この陽明学とは、孔子の教えである儒教の 性善説の流れを汲んでいます。

その教えは、「真理は理性によって究明され、正しいと思ったところを行動に移して実践して

いくことによって体得されて行くもの」と説いています。そこで西郷は「政治・社会を改革する

学問として陽明学を学び、島津斉彬の一大改革に従って、開国後の外敵来襲に備えて明治維新を

成し遂げようとしていた」のです。そんな中で、重要な出来事は、幕末の維新頃に創設された

海軍伝習所です。それは、1853年にペリー艦隊が来日し、日本の開国を迫ったため幕府は

外国からの侵略に備えて、1855年(安政2年)に西洋式の海軍伝習所を長崎に置きました。

そこには、100名を超える若者が集まり、オランダから教官を招いて訓練を始めたのです。

その時、ペレス・レイケンが、オランダ語と航海術と密かにキリスト教について教えました。

そして、2年後の1857年には、カッテンディーケが第二次団長として赴任し、その時彼が

乗って来た蒸気船の咸臨丸を幕府に譲り、訓練と学習が行われました。その咸臨丸の船上で

毎週礼拝も行われ、カッテンディーケは、絶対主を信じる敬虔な姿を通して、キリスト教の心

を伝えたのです。勝海舟は、このとき、カッテンディーケの影響を強く受けています。


 また、そのカッテンディーケは、薩摩の島津斉彬のところへ咸臨丸で訪れています。その時、

西郷は聖書に触れた可能性があります。また、1859年(安政6年)には、オランダからの

宣教師が、英語教師としてフルベッキが来日しています。彼は、日本の武士は、漢文に通じて

いることを知って、中国で印刷された漢訳聖書を秘かに持ち込みました。そして、若い武士たち

に、聖書を与え英語と聖書も秘かに教えていました。そんな中で、西郷も、幕末に西洋人と

交際するようになり、国のかじ取りを誤らないため、西洋人のものの考え方、行動パターンを

知る必要があり、若い頃から学んでいた陽明学とキリスト教の教えが近いことを知って、喜んで

聖書を学びました。そして、陽明学とキリスト教の根本的な違いに気づいたのです。それは、

「敬天愛人」という言葉は中国の康煕(こうき)帝が記したものですが、この「天」は儒教で説く

ところの「人間の力を超越した力」ではなく、聖書が説く「絶対なる創造主であるお方」を

指していることを知って、 これまでの「天」の理解の実態がハッキリと(まなこ)に浮かび、

西郷の前に信仰の対象として現れたのです。そして、西郷は、当時 キリシタン禁制の布告が

しかれていたにも関わらず、バラ宣教師から洗礼を受けました。キリスト教の洗礼は、

「天地万物を創られた創造主なる絶対主の前に、自らが罪人であることを告白すること」で

あり、これは、陽明学の性善説とは正反対でした。しかし、その罪人を救うためにイエス・

キリストが来て下さったならば、「性善説にこだわる理由はない。ただ、従う決心をする

だけだ」と、サムライの本来の生き方を知ったのです。

 こうして、明治維新の時代には、勝海舟を始め、坂本龍馬も漢訳聖書を読んでいた一人です。

龍馬は暗殺される前に、浦上キリシタンたちの弾圧を否定する文書を残しています。日本を維新

に導いた人々は、聖書に触れ、信じる対象と考えていたのです。実は、神を絶対主として信じる

私たちこそが、世の終わりの維新に働く「終末の志士」だと自覚して行くべきでしょう。



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