日本宣教の危険・破局は、時として人の考え、政策が大きく影響を及ぼすことが
あります。
例えば、ザビエル以後、その後を受け継いだトルレスは精力的に活動し、
ザビエルが送って来た3人の修道士(ガーゴ、シルヴァ、アルカソバ)に対し、
「自分たちの考えを押しつけてはなりません。日本人の生活習慣を重んじるのです。
また、日本人と同じものを食べ、同じように暮らすことです」と教え、「街々では勝手
に行動せず、領主から宣教の許可をもらいなさい」と勧めました。この結果、日本人の
心は開かれて日本宣教の最盛期を迎えます。(因みに、この時期の1564年に、
高山友照とその子右近は洗礼を受けています。)ところが、1570年6月になると、
日本布教長として、ポルトガルの軍人であったカブラルが来日し、「日本の習慣に合わせる
ことを否定し、ヨーロッパの文化を未開の人間に教えるべきだと主張して、宣教師に日本語
を学ぶことを止めさせ、また日本人がポルトガル語を学ぶことも禁止し、日本人が司祭に
なる道も閉ざしてしまいました。」この結果、日本人信徒の反発を招き、カブラルはマカオ
に転出させられます。それでもなお、次の日本の準管区長に任命されたコエリョは、秀吉に
対して高圧的な態度を示して反感を買い、1587年に秀吉は宣教師の国外退去を命じ
ます。そして、1597年には、26人の信徒と宣教師が長崎で磔にされてしまいました。
しかしながら、1575年になると、イエズス会の総長の代理として、絶大な権限を与えら
れて来日したアレッサンドロ・ヴァリニャーノは、再び方針を転換させ、「宣教師が日本の
習慣や日本語を学べるように学舎を建て、日本人修道士をヨーロッパ人修道士と同等に待遇
し、日本人のための神学校を設置し、セミナリヨとコレジョを建てました」。
そして、日本人の司祭の誕生を願って四人の少年をヨーロッパへ送り出したのです。
こうした人間の思惑は、良き方向に行ったり、時には、全く逆方向に向かって絶対主の御心
を逆撫でし、福音宣教を妨げることも起こって来ます。しかし、その逆境の中でも、「全て
のことは、絶対主から発し、絶対主によって成り、絶対主に至る」(ローマ11:36)の
です。すなわち、日本の宣教は秀吉と家康によって、この日本から完全にキリスト教を絶滅
させ、信仰者を根絶やしにし、悪魔の勝利宣言がされたように見られましたが、実はキリス
ト教禁止令によって、宣教師たちは日本の各地に散って行き、日本の未開拓の地であった
奥州や津軽、北海道、佐渡に至るまで福音が行き渡ったのです。その証しが今日行われて
いるRUMMです。まさに、この日本でも初代教会の時代と同じ事が起こっていたのです。
そして今、私たちが蒔かなかった種が実を結び、刈り取る時期が来ました。 既に、九州の
五島から仙台までは、福音の刈り取りが成されています。しかし、これからは、北海道を始
め、各地の離島まで足を伸ばして行くことになります。そして、絶対主の救済計画の集大
成のため、用いられて行く時が近づきました。これは、御言通りに「全てが、絶対主によっ
て成り、絶対主に至るため」です。心して、これからの働きの為に備えて行きましょう。
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