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2018年 NO.628

罪の赦しの真実な時(救いの現実の時とは)


 「罪の赦し」とは、私たちの良心の責めが無くなることではありません。もし無くなるなら、

私たちは自分の内に罪が なくなってしまうということになります。しかし、クリスチャンの

現実は、罪からの赦しを受けた者ですが、依然罪を犯す者であり、その責めは続いています。

では、本当のクリスチャンの罪の赦しは、いつ実現するのでしょうか?

それは、私たちがこの地上の命を閉じた時です。それは、死ねばもうこの地上で罪を犯すこと

が事実上出来なくなり、これまでの全ての罪の清算が成されます。その清算の時には、一生涯

の罪は裁きの対象になります。すると、私たちは一人も救われることは出来ません。

ところが、イエス・キリストの贖いを信じ通した人は、絶対主が「私たちを責め立てて

いた罪の債務証書と、私たちに不利ないろいろな定め(律法)を、キリストにあって無効にして

下さいます」。即ち、「絶対主がこれを完全に破棄して、十字架に釘付けにして下さるのです」

(コロサイ2:14)。このように、絶対主は、私たちの罪の清算が行われる時に、私たちの

一切の罪を赦して下さるのです
ということは、罪の赦しを味わうのは、今の現在の時では

ありません。


  一切の罪の赦しはアオリスト形で書かれています。このアオリスト形は「私たちの現在の

状態の如何(いかん)に関わらず、過去にキリストの十字架上で成された贖いによって、

罪の赦しが成された」ということを意味します。ですから、生きている時に「キリストの罪の

償い」を信じて受け取った者は、その時は、まだ罪人であったとしても、死んだ(のち)

裁きの時に、「お前の罪の報いは、昔イエス・キリストが十字架で成し終えて下さっていた

ので、キリストの御陰でお前の裁きは無効にされるよ!」と言って頂けるのです。

ということは、クリスチャンの現在は、尚、罪を犯し続ける者であり、当然罪の責めを受け

続ける者であるというのが現実です。それは、仕方ありません。なぜなら、生まれた時から

魔物の心を抱き続けており、現在も尚、魔物の心は私たちの中から消え去ってはいないから

です。そんな人間ですから、自分で自分を救うことは出来ません。ただ、キリストの贖いに

よるしかないのです。すなわち、救われても罪人である現実は変わりません。それなら、罪を

犯した時は、正直に「自分の罪を度毎(たびごと)に認め、告白し続けるべきです」(Tヨハネ1:9)。

ということは、犯した罪を決して棚上げにせず、その罪は、告白によって認め続けて行くこと

なのです。だからといって、告白によって罪の責めが無くなることではありません。

むしろ、犯した罪の悔いは持ち続けることが罪人には必要なのです。そうすれば、その罪人の

罪の贖いをして下さったキリストの御陰で、罪の清算の時「絶対主は真実で正しい方ですから、

それらの罪を赦し、一つ一つの罪から私たちをきよめて下さいます」(Tヨハネ1:9)と

あるのです。罪は、決して自分で帳消しにしてはいけないものです。
しかしながら、生きて

いる時には全く罪の赦しを経験出来ないか?というとそうではありません。絶対主の憐れみで、

その人の良心の責めを取り去って下さる場合もあります。しかし、自分が罪を犯したという

事実は取り去られることはありませんから、一生涯へり下って悔いて行く心は必要です。

しかし、その悔いの中でただ「うなだれて行く」のではありません。罪の赦しは、キリストに

ありますので、へり下りつつ、その贖いを信じて前向きに生きて行くのが、クリスチャンの

正しい歩みです。罪の責めは、無くならなくても、罪の赦しが無くなることはありません

ですから、キリストに懸けて行く生涯を全うして行こうではありませんか。



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