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2018年6月3日

『信じていくのは努力ではなく、当たり前の事』

ガラテヤ人への手紙3:1~5

(起) ガラテヤ書3章1~5節の御言葉から、「救いは仕上がっているものを信じ通していくだけ」

と言うことを学び、そして、「信じていくのは努力ではなく、当たり前の事」という救いの真理を

学んで行きます。


(承)さて、パウロさんがここで指摘している問題は、「救いは、自分自身の行いによるものでは

なく、イエス・キリストの贖いによるものであり、あなた方の目の前でそれがはっきりと描き出され

たのに、その贖いに信頼せず、自分自身の行いに信頼を置こうとしているのは何故ですか?

あなたがたは御霊で始まったのに、今になって肉の力で仕上げるというのですか」と、問い掛けて

います。実は、この問題はいつの時代にも同じように起こって来た問題ですが、相変わらず、

私たちの中にもある問題です。なぜなら、今も昔も働いている悪魔は、私たちを惑わし「信仰には

何の力もない」もののように思わせるからです。そして、
信じたって、現実は何も変わって

いないではないか?結局は自分の力でやらなければ、何一つ変わらんぞ」と、畳み込んで来るの

です。
すると、救いというものが非常に虚しいものに思えてしまいます。そして、イエス・キリスト

の贖いが、どこかに吹っ飛んで行ってしまうのです。
自分は、「本当に信じているのか」、自分は

「、信じて、本当に救われているのか」と、疑いの虜になります。
教会に来てメッセージを聞いて

いるときには、「地上で犯した全ての罪は、絶対主の裁きの対象であったのに、イエス様の贖いの

故に、自分は裁きの対象から赦して頂いている。これはすごい救いだ。」と、励まされます。

しかし、一歩教会の外に出ると、その救いは、現実的なものではなくなるのです。それは、「ただの

言葉の上だけの救いではないか」と、疑ってしまいます。なぜなら、信じたからといって、自分に

降りかかってくる現実の罪の問題が解決される訳でもないからです。そこで、「困難にぶち

当たったり、身動きできない状況が起って来くると、何一つ助けて貰えないではないか」と、

ただ不信仰の虜になって行くのです。この問題にぶち当たると、私たちは信仰に迷いが生じ、

信じ続けることに自信を失ったりして、「本当に救われているのか」と、信じることに疑心暗鬼に

なってしまいます。


(転)しかし、私たちはこの悪魔の惑わしにそそのかされて、信じる心を失ってはなりません。

なぜなら救いは、この地上のものではなく、生きている時に犯してきた罪が、命を閉じた後に裁きの

対象から救われることだからです。
その根拠は、イエス キリストの贖いにあります。その贖いは、

私たちの罪の身代わりとして、キリストの命によって罪の代価が払われた(アオリスト形)から

です。即ち、私たちの信仰は、既に仕上がっている罪の贖いを一生涯信じ続けて行くことにかかって

います。私たちは、この地上にいる限り、信じたからといって、罪がなくなる訳ではありません。

死ぬまで犯し続けてしまう原罪があります。しかし、そんな私たちが、自分の肉の力で救いを

仕上げようとしても、できるわけがありません。だからこそ、私たちにとって、イエス・キリストの

贖いが全てなのです。これが、天の御国に入れていただく保証です。ですから、私たちは、

自分自身の肉の力で仕上げて行くのではなく、既に仕上がっているもの(イエス・キリストの贖い)

を信じ通して行く事に、全てを懸けて行くのです。この救いの真理に、しっかりと依って立つべき

です。もし、「信じても何の意味もない」というような思いが入ってきたら、このように自分に

問い掛けて下さい。「信じることは当たり前。どうして当たり前?」そこで、「イエス様の贖いが

あるから」と自分から答えを出すのです。そして、「イエス様の贖いの故に、罪の精算の時に裁き

から赦される」という救いの真理に立ち戻るのです。この真理に立ち戻ることができれば、「この

地上で起こって来る、いろいろ煩わしい問題であっても、罪人の世界だから当然のことだ。それは

自分が受けて行けばいい事であって、当たり前の事だ」と思えばいいのです。すると、救いという

のは、「自分の思い通りになることではない」ということが見えてくるはずです。そこが見えて

くると、「たとえ地上で苦しい目に遭ったり、恥をかくことがあったとしても、イエス様の贖い

だけは信じ続けて行こう」というところに立てるのです。


(結)こういうわけで、たとえこの地上にあって困難にぶちあたり、命を失うことになったと

しても、信じる心だけは絶対に捨ててはいけない事が分かります。ただ、信じる心を通すことが、

私たちにとって当たり前になり、キリストのために生きて行く事が、目的になります。
悪魔は信じる

心を馬鹿にしてきますが、その声に惑わされてはいけません。そういうときこそ、「信じる心は


当たり前。どうして?」と問いかけて下さい。
それは、「生まれながらにダメ人間だったからこそ、

イエス様が贖いをして下さったから」と。だから、この贖いを信じ通して行くことは、私たちに

とって全てです。この心を最後まで通したならば、私たちは、イエス様の贖いの故に、罪の裁きから

救われるのです。どうか、この救いの真理に立ち戻り、最後の最後まで信じ通して行こうでは

ありませんか。「あなた方は、自分の持っている確信を投げ捨ててはいけません。その確信には

大きな報いが伴っているのです」(ヘブル1035)。 

 
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