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2018年6月10日

『積極的な信仰と、へりくだりの心を以て主に仕えて行く』

ガラテヤ人への手紙4:21~31

(起) ガラテヤ4章21節から、ハガルの産んだ子とサラの産んだ子の例を通し、律法は廃棄された

ことと、律法の下にない聖徒の幸いを学び、「積極的な信仰と、へりくだりの心を以て主に仕えて

行く」ことを学んで行きたいと思います。


(承)さて、今お読みした内容は、旧約聖書の創世記にも出てきます。アブラハムは、「あなたの

子孫は、空の星の数ほどに 増え広がって行く」という約束を絶対主から受けました。しかし、

アブラハムにとって、サラは年を経ていたので、「サラが子を生むのは無理だ」ということは目に

見えていました。そこで、アブラハムは、女奴隷のハガルから子を得ようと考え、ハガルによって

イシュマエルを得ました。ところが、初めは女主人のサラもイシュマエルを自分の子として

可愛がっていたのですが、イシュマエルがアブラハムの跡を継ぐ青年として成長して行くにつれ、

女奴隷のハガルが、「跡継ぎとなるこの子は、私が産んだ子です」と誇り始め、主人であるサラを

見下すようになったのです。そこで、絶対主から声がかかり、「アブラハムへの約束は、アブラハム

自身から産まれ出てくる者によって実現する」と言われました。すると、翌年には、年老いていた

アブラハムとサラとの間に、イサクが生まれたのです。すると、絶対主は「女奴隷(ハガル)と、

その子(イシュマエル)とを追い出せ。女奴隷の子は、決して自由の女の子と共に相続をしては

ならない」(30節)と言われました。この言葉は、人間的には非情な宣言です。しかし、ここに

絶対主の真理があります。それは、絶対主の考えはどこまでいっても「アブラハムを通して子孫が

増え広がって行くこと」であり、あくまでも御自身がお決めになった方法で人類を導こうと考えて

おられたからです。だから、そこに人間が考えた方法や手段が入ってはいけなかったのです。

イシュマエルは、絶対主の約束によって与えられた子ではなく、アブラハムが考えた人間的な方法に

よって得た子です。
だから、絶対主は「女奴隷とその子とを追い出せ」と言われました。それは、

人間の知恵と方法で努力したとしても、天に繋がることはないからです。ですから、絶対主から

出たことは、絶対主の方法に依らなければなりません。ここが、人間と絶対主の考えの一致しない

ところです。人間は自分の方法も入れたくなります。しかし、絶対主は、
人の肉の方法を

「律法主義」
と言われ、それを拒否し、廃棄されました。なぜなら、人の努力によっては傲慢に

なるだけで、
絶対主の義には到達できないからです。

(転)では、私たちはどうすべきでしょうか。私たちも、長い間ずっとこの世の教えの下に

ありました。しかし、絶対主がイエス様をこの世に遣わして下さったことによって、この世の

律法的な支配から解放してくださいました。しかも、イエス様が私たちの罪の贖いをして下さった

ことによって、人間に根拠を置かない方法で、完全な救いを実現して下さったのです。すなわち、

人間の努力(律法)によって救われるのではなく、ただイエス様の贖いによって、罪の奴隷であった

私たちが絶対主の子とされる道が開かれたということです。この道が開かれた以上、私たちは

「約束の子」としての生き方をして行かなければなりません。しかしながら、信じた後、聖書を

読み始めると、「信じた者はこのように歩みなさい。あのように歩みなさい」と書かれている

御言葉に遭遇し、「書かれている以上、その通りやっていかなければ救われない」と思い、再び

律法主義的な方向に向かってしまうのです。 しかも、私たちは子どもの頃から「こうしなさい、

ああしなさい」と教えられてきましたので、たとえ出来そうになくても、「そうすべきだ」という

強い声に押されてしまいます。すると、「努力することが、なんでいけないの?」という気持ちが

働くのです。それどころか、「行いで褒められることによって、自分が生きていることの価値を

感じたい」とさえ思ってしまうのです。でも、それは悪魔の騙しです。
人間の心の中には、生まれ

ながらに魔物が住んでいて、「罪人である」という現実は、いくら褒められることがあっても変わる

ことはありません。
現実の私たちは、生来の魔物をもった罪人なのです。だから、私たちが依って

立つ所は、イエス様の贖いしかありません。しかし、だからと言って、「自分の努力を表せば、

誇る方向に行ってしまうから、何もやらなくてもいい」と考えるのも間違っています。
私たちは、

イエス様によって律法から解放されたと分かったら、もう自分が褒められるために生きていく必要は

ないのです。「むしろ純粋な気持ちで、イエス様のために努力し、イエス様のために生きて

行きたい。」
と思うのが正しい心根です。この土台に立てば、律法に縛られない自由な世界の中で、

純粋にイエス様のために努力して生きて行くことができるでしょう。


(結)どうか、私たちの残された時間を主のために努力して用いて行きましょう。それは、イエス様

の贖いが分かり、もう律法の下にないと分かったら、「自分自身の為に生きて行くのではなく、

イエス様の栄光のために命を捧げて行こうと思えるはずです。」
その具体的な歩みは、主に心を

向けた思いで、人に対して心を使い、仕えて行くことです。
それは、「目に見える者に従うことが

できなければ、目に見えない絶対主に従うことはできない」と聖書に書いてあるからです。

ですから、天でイエス様や絶対主に結びつくために、主に心を向けた思いで、積極的な信仰と、

へりくだりの心を以て人と、主に仕えて行きましょう
(マタイ16:24)。

 
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