教 会 案 内 牧 師 紹 介 定 期 集 会 特 別 集 会
定 期 メ ッセージ  シ ョ ー ト メッセージ 福 音 の 話
行   事 教 会 新 聞 掲 示 板 リ ン ク 事 務 室


2018年12月2日


『天に繋がる一本道』

使徒の働き26:13~18



起) 私たちの教会に示された真理と与えられた任務は何か、ということを学びたいと思います。

(承) さて、パウロは、初代教会の福音の初めに、絶対主の奥義を伝える使命を与えられました。

その絶対主が示された奥義とは、17~18節にあるように、「異邦人もユダヤ人も同じように絶対主

の子とされる」ということです。これは、旧約では一切明かされていなかった奥義であり、当時は律法

によってユダヤ人と異邦人の区別がはっきりとなされていましたので、ユダヤ人と異邦人の間には、

絶対に崩すことのできない隔ての壁があったのです。ところが、その隔ての壁を、イエス様によって

取り除かれ、すべての人々が律法から解放されました。そして、「ユダヤ人も異邦人も皆、イエス・

キリストの贖いによって絶対主の民とされる」という福音が、パウロによって語られて行ったのです。

イエス様は、この奥義をパウロに示し、これを全世界の人々に宣べ伝えるようにと、彼を任命しました。

(転) では、今日、福音の終わりに私たちに示されている大事なメッセージは何でしょうか。

それは、パウロと同じように、私たちにも絶対主から示されている大事な真理があります。それは、

「人間は、知性も意志も何もかも堕落している罪人である」ということです。これは、当然のことの

ように思われますが、実際は、未信者は取りも直さず、クリスチャンの多くも13世紀から始まった

ヒューマニズムの考えによって汚染され、
どこまでも自分の考えを土台にして生きています。

このヒューマニズムに生き方は、13世紀のトマス・アクィナスの「人間の意志は堕落したが、知性は

堕落していない」という考えから出て来たものです。ですから、この考え方に立った人々は、我を否定

しようとしない生き方を始め出しました。そして、そのヒューマニズムの教えは、「自分の考えは自分

であり、自分の考えに従って生きて行くのは当たり前」と考える人々の時代となったのです。

そこで、「聖書の言われるままに生きることは、自分が自分でなくなる」と考えてしまうクリスチャン

がいることは、現実です。しかし、私たちは、「人間の知性によって、どんなことでも解決できる」

というヒューマニズムの考え方が間違っていることを、聖書を通して学んできました。それは、聖書

には「人間は創られた被造物であり、人間に主権があるのではなく、人の命の創造主である絶対主が

天上天下の主権をもっておられる」からです。しかし、私たちは、子供の頃から当たり前のように、

「自分で考えて、自分の判断で生きていくように」と教育されて来ました。ですから、「人間の知性は

堕落している」などとは、考えてもいませんでした。だから、聖書にあるように、「人間は生まれ

ながらに罪人である」という意識は、なかったのです。こういう考え方を子供の頃から受けて育って

きましたので、罪を犯して怒られたとき、素直に謝ることをせず、私たちは決まって「もう二度と

しません」と、自分の決意に頼って、赦して貰おうとして来ました。しかし、聖書には、「私の肉の

性質の中には、善が宿っていないことを私は知っています。なぜなら、善をしようとする意志は

あっても、それをする力がないからです。」(ロマ書7章18節)とあります。それなのに、人間が

自分の知性は堕落していないと言えるでしょうか。もし、「自分の考えや自分の思い、そのすべてが

罪の堕落の中にあるのだ」と自覚していたなら、「もう二度としません」なんて言えなかったはずです。

それなのに、その慎みの心を持てず、「もう二度としません」と言い切ってしまうのは、「そのように

言うことが正しい」と、自分よがりに考え、自分勝手な律法主義に立っていたからです。

また、そのように言わなければ、「お前は何を考えているのだ。反省が足りない」と怒鳴られて、

赦してもらえないと思っていたからです。しかし、「もう二度としません」と言い切って、本当に罪を

犯さずに一生涯歩めるのでしょうか。それはあり得ません。すると、私たちのどこに問題点があった

のかと言いますと、
「自分は正しく判断ができる」という知性に頼っていたところが、間違っていた

ということです。このことを絶対主は私たちの教会に示し続けて下さいました。
ところが、この世の

多くの教会は、「もう二度としません」と言って、ちゃんと反省している姿を表わすことが、

クリスチャンの正しい生き方だと教えています。しかし、これこそが大間違いです。むしろ、「二度

としませんとは到底言えない罪人です」と、正直に絶対主の前にへりくだる心こそ、絶対主の御心

です。

 なぜなら、反省しても罪を犯してしまう人間だからです。この現実の故に、イエス様が身代わりと

なって、罪人の贖いをして下さったのです。ならば、「こんな罪人ですが、そこまでして下さった

イエス様のために、何とか御心に適うことをやらせて下さい。しかし、自分の力ではできませんので、

お助け下さい」という心で一つずつやらせていただくのがクリスチャンの生き方です。これが、

私たちの教会に示された大事な真理であり、これを世界中のクリスチャンに伝えて行くために召された

教会です。

(結) 初めのパウロは、「イエス・キリストによって律法が廃棄され、ユダヤ人と異邦人の隔ての

壁が取り去られた」ことを絶対主から示されて語り出しました。そこで、世の終わりに差し掛かって

いる私たちは、「ヒューマニズムによって汚染され、『人間的知性には信頼を置ける』と、聖書から

人々を遠ざけたカトリックの神学者トマス・アクナス」の考えを退け、
「全ての人間は、知性も意志も

何もかも堕落しており、キリストに従っていく道しか天の御国に繋がる道はない」という一本道の

福音を「あなた方に現れて示そうとしていることを宣べ伝えるわたしの僕、証人です

(使26:16)という召しに答えていくのが、私たちの教会の任務です。この世の終わりにあって、

まず私たちがこの真理に立って、教会に示された真理と与えられた任務のために、大胆に用いられて

行こうではありませんか。
 
 


 *メニュー
      * 教 会 案 内
      * 牧 師 紹 介
      * 定 期 集 会
      * 特 別 集 会
      * 定期メッセージ
      * ショートメッセージ
      * 福 音 の 話
      * 行       事
      * 教 会 新 聞
      * 掲  示  板
      * リ  ン  ク
      * 事  務  室