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2018年1月21日

「絶対主ファースト」の生き方を始め出すこと

ルカの福音書15:11~32

(起) 放蕩息子のたとえから、「本当の悔い改めとは、絶対主に懸けて行きます」と、180度

心を変えることであり、「そこから『絶対主ファースト』の生き方を始め出すこと」を学んで

行きたいと思います。


(承)さて、この放蕩息子の話の中には、父と二人の息子が出てきます。ある日、弟は父から

財産をもらって旅に出掛けましたが、その財産をあっという間に使い果たしてしまい、最後には

自分自身が食べることにも窮し始めて、豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいと思うほどで

した。そこで、彼は本心に立ち返り、「父の所に帰って、『私は罪を犯しました。

もう、あなたの息子と呼ばれる資格はありません。雇人の一人にして下さい』と言おう」と

決めて、家に帰って行きました。すると、息子を見つけた父は、走り寄って口づけし、最上の

着物を着せ、祝宴を開いてくれたのです。彼は、この経験を通して、「自分はもう息子と

呼ばれる資格なんてないと思っていたのに、こんな自分を父は受け入れてくれた。本当に自分

は馬鹿だった。これからはへりくだって父に仕えて行こう」と、心底思えるようになったの

です。
このように、180度心を変えることが本当の悔い改めです。次に、お兄さんについて

見て行きましょう。お兄さんは、畑仕事から帰って来て、父が弟にしたことを聞くと腹を

立てて家に入ろうともせず、「私は長い間、あなたに仕えて、一度もあなたに背いたことは

ありません。それなのに友達と楽しむように、子ヤギ一匹も下さったことがありません。

それなのに、遊女に溺れて身代を食いつぶして帰ってきた弟に、肥えた子牛を屠るのですか」

と言って怒ったのです。確かに、お兄さんの気持ちも分からなくはありません。だが、「もし

友達と楽しみたい」と思ったのなら、父に「小ヤギを下さい」と言えば良かったのです。

それを、兄というプライドを守るために、良い子ぶって我慢して来ただけです。すなわち、

「友達と楽しみたい」という本心を抑えて、単なる偽りの自分を父の前に表してきただけです。

それは、「自分は長男だから、良い子であらねばならない」という律法を持っていたにすぎ

ません。それは、彼のやせ我慢というプライドです。実は、この偽りのプライドこそ、彼が

悔い改めなければならなかった部分だったのです。


(転)では、私たちはどうでしょうか。私たちは生まれながらに罪人で、例えるならば、豚の

餌の中に落ちた飴玉のような者です。普通の地面に落ちた飴玉なら、洗えば食べられますが、

うんこのような豚の餌の中に落ちた飴玉は、洗っても食べたくない物です。しかし、絶対主は、

うんこの中に落ちた飴玉を拾い、イエス様によって綺麗に洗って、しかもそれを食べて下さった

のです。
すなわち、どうしようもない罪人である私たちを受け入れて下さったのです。

それが分かったら、「本当にありがとうございます。これから、私はただ絶対主のために

生きて行きます」と言って、本気で絶対主に懸けて行く生き方に変わってよかったはずです。

しかしながら、私たちが、なかなかそのように変わって行かないのは何故でしょうか。

それは、放蕩息子の話の中に出てくるお兄さんと同じように、良い子ぶって自分を守っていた

からです。私たちは、子どもの頃から、「可愛い子ぶったり、良い子ぶったり」して、人に

受け入れてもらおうと、自分を守って生きて来ました。ところが、「ぶる」ということは、

本来は、うんこの中に落ちた飴玉のような汚れた罪人であるにもかかわらず、「私は汚くあり

ません。綺麗です」と偽りの仮面を被ることです。それがたとえ偽りであっても、人の前には

「そうして行くことが正しい」、また、「そうして行かなくてはならない」という偽りの律法

が私たちの中に入り込み、どこまでも「自分を良く見せて行くことが大事だ」と、生きてきた

のです。これでは、「自分はうんこの中に落ちた罪人です」と正直に認め、心底悔い改める

ことができません。また、絶対主を第一にして「絶対主ファースト」の生き方はできません。

もし私たちが、良く見せられる義人であったなら、イエス様の救いは人間に必要なかったはず

ですし、イエス様も人間のために死ぬ必要がなかったでしょう。だから、私たちは偽りの

プライドを砕き、悔い改めて、「もう『自分は義人ぶれない』、私は絶対主の前に罪人です」

と、弟息子のように180度心を変えて行くべきです。

(結) どうか、「可愛い子ぶる、良い子ぶる」ということは、ただの偽善だと気付いて

下さい。そして、「本来の自分は、うんこの中に落ちた飴玉のような者で、どうしようもない

罪人でしかない者ですから、良い子ぶることなんて必要ない。そんなことをしても無意味だ」

と悟って、正直な罪人の一人に戻りましょう。それは、放蕩息子の兄から離れることです。

そして、今までの義人ぶった自分を砕き、
本当の悔い改めに立ち、これからは「絶対主に

懸けて行きます」と
、放蕩息子のように180度心を変えて、「絶対主ファーストの生き方」

を始め出そうではありませんか
。 

 


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