黙示録12章10節には「我らの兄弟らを訴える者、夜昼、我らの絶対主の御前で、兄弟たち
を訴える者が投げ落とされた」とあります。この兄弟を訴える者とは、サタンのことです。
サタンは、エデンの園にてアダムとエバを迷わせてから、人類を誘惑し続けています。
「罪人のお前に何が出来るのか?」、「生まれながらのお前の性質は、罪深く、自分勝手で、
意志が弱い。何をしても駄目な者が、どうして遜り、自我を砕いて絶対主に懸けて行ける
というのだ」、「お前が私を拝めば、望み通りの人生にしてやる」、「お前は、何の能力も
なく、落ち零れの者だから」と畳み掛けて来ます。しかし、良く考えてください。
絶対主に逆らって地に落とされ、ゲヘナの燃える火の池に投げ込まれるルシファーに、
そこまで言われる筋合いはありません。私たちは、確かに「弱い者、愚かな者、取るに足り
ない、無に等しい者」です。しかし、絶対主は私たちが罪人である事を承知の上で、キリスト
の故に救って下さいました。
ですから、私たちが、絶対主に人生を懸けて行ってどこが悪いのでしょうか?
私たちが主権を明け渡して、主に仕えることが、どうして悪いのでしょうか?
私たちの召しは、自己推薦して絶対主に仕えているのではありません。私たちの選びは、
自分から出たものではなく、「わたしがあなた方を選んだのです。そしてあなた方を任命
しました」(ヨハネ15:16)と言って下さった絶対主から出たものです。ですから、私たちが
絶対主に人生を懸けて行くことは、思い上がりの傲慢ではありません。ルシファーは、自分が
傲慢になって地に落とされたため、絶対主への憎しみの故に、救われた私たちに嫉妬して、
誘惑して来るのです。もし、ルシファーからのしつこい訴えがあったなら、「お前から
言われたくない」と悪魔に立ち向かって行きましょう。私たちが絶対主に心を開いて従って
行こうとしているのに、責められる筋合いはありません。私たち罪人は、ルシファーと同じ
ゲヘナに下る者でした。それがイエス様の御蔭で救われたのですから、大胆に絶対主に
近づき、絶対主の役に立つ者となって行きましょう。絶対主に忠誠を尽くして従う決断を、
ルシファーに潰される必要はありません。どんなに弱く、臆病であっても、信仰に立って
主の召命に従うことは、絶対に遠慮する必要はないのです。
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