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2017年 NO.615


『罪を直視したクリスチャンの生き方』

クリスチャンが信仰の歩みをして行く時、生まれながらの罪人であることを棚上げしては

いけません。それは、信じたからといって罪が消えてしまったわけではないからです。私たちの

罪は、キリストの贖いを通して償いがされ、生まれながらに罪人であったにもかかわらず、

絶対主に受け入れられる者になりました。しかし、この贖いは、キリストがして下さったもので

あり、自分でしたものではありません。ですから、私たちは、救われた罪人」に過ぎない

ことをいつも自覚すべきです。そして、なお救われた者であったとしても、依然罪の中に歩み

続けている者である事実も軽んじてはいけません。
しかし、自分の罪を直視するのは辛いこと

ですから、救われたのだから、「もう罪を犯さない自分でありたい」という気持ちも当然

起こってきます。しかし、現実の自分は罪を犯す醜い自分でしかありません。しかも、過去の

嫌な自分を思い出し、嫌な思い出も浮かんで 来るのが現実です。だから、キリストの死を

通して罪深い人間を受け入れられた絶対主は、罪人が、自分の罪を棚上げするのを赦されま

せん。例えば、マクダラのマリヤさんは、公衆の面前で姦淫の罪を暴かれ、石打ちの刑にされ

かかりました。しかし、イエス様は「わたしも罪に定めない」と言われ、マリヤさんを赦された

のです。しかし、罪が赦されたマリヤさんは、その辛い過去が消えてしまったかというと、

そうではありません。ふと、我に返った時、恐ろしい恥が記憶に上ってきます。それでも、

罪人のために贖いをして下さったイエス様は、そんなマリヤさんにも近づいて下さいます。その

イエス様の心を知ると、マリヤさんは、自分にも出来ることを、イエス様のために精一杯したい

と思うようになります。そのような心が動き出すと、キリストのために心を使うことが生きがい

となります。そして、たとえ気の弱い人間であっても、イエス様にあって生きていくことが、

張合いを感じるようになって行くのです。だからといって罪の自分が消えてしまった訳では

ありません。依然惨めな、自己嫌悪と劣等感に打ちのめされた自分があります。しかし、

絶対主の前では、それで丁度です。
なぜなら、クリスチャンは、キリストの前に生きることが

できるからです。もうクリスチャンは、人に対して罪を棚上げにして生きるのではなく、

絶対主の前に生きるのです。それは、罪深い者を救って、まともに扱って下さったイエス様が

いるからです。このことを見いだしたマリヤさんは、たとえ惨めな自分でも、絶対主にあって

仕えていく喜びを味わって行ったのです。ですから、罪を直視した遜った生き方こそ、

クリスチャンの生き方となっていくのです。
逆に、自分の罪を棚上げにして、自分の罪を

自覚しようと思わない者は、キリストの十字架を利用するだけで、絶対主は、そのような者に

心を向けられません。むしろキリストの救いは適用されなくなるでしょう。ですから、罪人は、

自分の罪に苛まされて、罪を直視して行って丁度なのです。

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