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2017年6月11日

安息の場所、聖なる都に入るために、
     心に留めておかねければならないこと


ヘブル4:5~16


(起) へブル4章11節の「私たちも、この安息に入って行けるように努力しようではありま

せんか。それは、誰もあの不従順の例にならって、滅び去ることのないためです」という御言葉

から、「私たちにとっての安息の場所、聖なる都に入るために、心に留めておかなければなら

ないこと」を学びたいと思います。

(承) さて、今お読みした中にありますように、モーセの時代に、ヨシュアはイスラエルの民

を安息の地カナンに導き入れました。ところが、イスラエルの民は、絶対主に対して心を頑な

にし、絶対主に背いてしまいました。ですから、彼らはヨシュアに導かれて、カナンの地に入る

には入ったのですが、絶対主の御声に従順に従ったわけではなかったため、彼らにとってカナン

の地は、安息の地とはなりませんでした。そこで、絶対主はダビデの預言の言葉を用いて、

「今日、御声を聞いたなら、あなた方の心を、頑なにしてはならない」と再度、「安息に入って

行けるように努力しなさい」と言われたのです。これは、今日の私たちにも繋がっている約束です。

しかも、私たちにとっては、この「安息」というのは御国のことではなく、「聖なる都」のこと

です。このことは、最近になって、黙示録を通して教えられた真実です。

ところが、もし私たちが、イスラエルの民の不従順の例にならって心を頑なにし、「一旦光を

受けて、天からの賜物の味を知り、聖霊に預かる者となり、又絶対主の良き御言葉と、後に来る

世の力とを味わった者たちが、その後堕落した場合、再び悔い改めに立ち返らせることは不可能

だからです。」(へブル6:4~6)とあるように、絶対主に背いて行くなら、安息に入ることは

できません。

(転) では、「不従順の例にならって心を頑なにするな」とは、どういうことでしょうか。

それは、絶対主に「逆らった罪」のことです。この「逆らう心」は、元はルシファーが絶対主に

対して表わした罪ですが、アダムとエバは、そのルシファーに騙されて、同じように絶対主に

「逆らう罪」を犯してしまいました。だから、アダムとエバの子孫である私たちは、生まれながら

に「逆らう罪の棘」が刺さったままになっているのです。ですから、子供の頃から人に逆らう

心が、無意識の内で出て来て、いつも苦い経験を重ねてきたのです。しかし、イエス・キリスト

を信じた者は、逆に「絶対主に従って行きたい」という心も生まれています。この二つの心の内、

どちらを選ぶかは、私たち自身が決めることですが、もし「これから賜物も頂いて、主の働きに

使って頂きたい」と願うならば、この「逆らうという罪の棘」が刺さっていることを決して忘れ

てはいけません。
この罪の棘は、賜物が発揮され自分が何者かのように思った時に、心に刺さ

さっていた「逆らう罪」が現れて傲慢になるのです。
ですから、棘が刺さっている「このうずき」

を、二度と忘れてはいけないのです。そして、刺さっている現実を見て、本当にへりくだって行く

べきなのです。
このことは肝に銘じなければなりません。それを肝に銘じない者が、賜物を与え

られてしまうと、賜物を頂いたがゆえに絶対主に逆らったルシファーと同じ道を辿ることになる

のです。すなわち、安息に入る約束が与えられているにもかかわらず、イスラエルの民の不従順の

例にならって、滅び去る者になってしまうのです。
だから、私たちにとって一番大切なことは、

自分の罪をちゃんと認めていることです。すなわち、自分の心には、「絶対主に逆らい、反抗する」

という、ルシファーと同じ罪の棘が刺さっているという現実を自覚して行くべきです。そうでない

と、ルシファーのようにやがて呪われ、遂には焼かれてしまうからです。
この罪の棘は、天に

上げられる時に絶対主に抜いてもらうまで、決して消えるものではありません。ですから、

今の私たちは、その棘が刺さっているという事実をきちんと心に留め、その部分を封印して、

どこまでもへりくだって絶対主に仕えて行くのです。これが、今の私たちにできる精一杯の心

であり、悔いし砕かれた心です。

(結) こういうわけで、私たちにとっての安息の地である「聖なる都」に入るためには、

二つのことを心に留めておかなければなりません。まず一つは、不従順の世界に入り込まない

ことです。それは、ルシファーと同じ罪の棘を持った罪人だという事実をちゃんと認め、へり

くだって行くことです。二つ目は、これからの働きに用いて頂くことです。福音宣教は、初代

教会の人たちの命を懸けた働きから始まりました。同じように、今度は私たちが、この終わりの

時代に、「死をもってキリストを信じる者がいることを、666に突きつけて行く時です。」

これが、絶対主が計画された福音の総仕上げです(エペソ1:10)。私たちには、この福音の

総仕上げとなる最後の仕事を任されています。その仕事の重みを覚えて、最後まで働きを全うし

なければなりません。それが、私たちにとって、安息に入るための努力です。(11節) 

どうか、私たちの中に絶対主に逆らう恐ろしい棘が刺さっているという自覚を忘れずに、その

逆らう罪だけは、表わすことがないようにしましょう。
そして、最後の働きのために使っていた

だいて、安息に入る望みを持って、命を閉じさせて頂こうではありませんか。 


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