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2017年3月5日



自分の罪を素直に認めて行く世界に飛び込む

第Ⅱコリント7:8~12


(起) コリント人への手紙を通して、コリントの教会の人々に対するパウロさんの心を学び、

「自分の罪を素直に認めて行く世界に飛び込む」ことについて、学んで行きたいと思います。


(承) さて、第二コリント7章:8節を見ますと、「あの手紙で、あなた方を悲しませて

しまった」とあるように、パウロさんは第一の手紙の中で、「イエス・キリストを信じたにも

関わらず、未信者時代にあった習慣的な罪の行為を未だに行っている」というコリントの教会

の問題を指摘し、彼らに対して「確かに救われたことは事実だが、それを逆手にとって、

何をやってもいいというわけではない」と、肉の罪をはっきりと断罪しました。しかし、

そのことによって、彼らは「自分たちのしていたことは間違っていた」と気付き、悔い改めて、

新たに絶対主の前に歩み始めたのです。パウロさんは、その悔い改めの話をテトスから  

聞いて喜びました。なぜなら、パウロさんが彼らの罪を指摘し、厳しく断罪した目的は、

そこにあったからです。第Ⅱコリント2:4~11を見ると、「私は、第一の手紙を通して

あなた方を悲しませたけれども、それによって、罪を犯した人自身がその罪を自覚したならば、

もうそれ以上責める必要はない。むしろその人を赦し、慰めてやりなさい」と語っています。

すなわち、罪を犯した人に対して、「お前は罪を犯したからもうダメだ」と言うのではなく、

「罪を犯した自分が悪かったということを、本人が正直に認めて受けとめたなら、それでいい」

ということです。これが、コリントの教会の人々に対するパウロさんのメッセージでした。


(転) では、今日の私たちが犯す罪の問題に対しては、絶対主はどう考えておられるの

でしょうか?それは、パウロさんが、コリントの教会に語っている心と同じです。それは、

どういうことかと言いますと、私たちもコリント人と同じ異邦人であり、「人に迷惑をかけ

なければ、ある程度肉の問題は自由にしてもいい」と言われていますが、「その自由を悪を

行う口実としないで、絶対主のしもべにふさわしく行動しなさい。」(1ペテロ2:16)

と言われているからです。しかし、この自由がいい加減になってしまうのです。それは、

異邦人はユダヤ人のように厳格な律法の下にありませんでしたので、それぞれが自分勝手な

判断になり、生まれながらに持っている罪や習慣が染み付いたまま、罪を表してしまうから

です。それを出せば、当然指摘され、怒られもします。しかし、それを「言われる通り、

私が悪かったのです」と言って、遜ってその事実を受けとめるならば、コリントの人々の

ように、もうそれ以上責められることはありません。しかし、つい「自分は悪くない、

みな同じことをしている」と言って自分を守ろうとし、弁解をし、自分を罪に定めること

をしようとしないならば、主の死を無駄にすることになります。しかし、弁解無用の心で、

絶対主に頭を下げるなら、絶対主も「それでいい」と言って赦して下さいます。ですから、

「赦し」というのは、「私たちが罪を犯さない人間になれば許してもらえる」というのでは

なく、「罪を犯した人間であっても、その罪を正直に認め、自分を罪に定めるなら、

絶対主はその者はそれ以上責められない」のです。なぜなら、罪人のための贖いがされた

からです。


(結) このように、クリスチャンはたとえ救われても、罪を犯さない人間になったわけでは

ありません。生まれながらの肉の性質や肉の癖という原罪は、信じた後もなくなっていません。

それは、御国に入る時に取り去られるのです。その時までは、救われた者として、罪を告白

しつつ、遜って行くだけです。だから、罪はふとした瞬間に、また出てしまいます。しかし、

その部分を指摘された場合に、正直にその罪を認めて遜りの心を持ち続けて行くならば、

「それでいい」と言われているのです。これが、罪人に対する絶対主の心です。ですから、

私たちにとっての問題点は、罪を指摘された時に、ムカッとしたり、弁解したり、他人の所為

にしたりすることが、一番の問題点です。なぜなら、怒られていることを素直に受けとめる

ことが出来ないということは、罪の責任を取ろうとしないことです。イエス様が、原罪の罪の

責任を身代わりに取って下さったのですから、私たちの日々の罪過に対する責任ぐらい取る

べきです。その罪の責任のゆえに、「ゲヘナに行け」とは、決して言われることはありません。

イエス様の贖いがあるからです。なのに、
怒られると、人から文句を言われたくないという

「壁」が無意識に出で、自分を罪に定めることをしていない
のは、自分の原罪の罪が清められ

たことを信じていないことになります。クリスチャンは、指摘された罪に対して、「その通り

です。自分が間違っていました」と素直に認めて行くことが、最小限に地上でして行くべき

ことです。それが出来ていないのは、未だに、自分を罪に定める壁を越えていないからです。

その原因は二つあります。一つは、サタンの強力な妨げがあるということです。サタンは

クリスチャンが罪に定める心を馬鹿にします。もう一つは、私たち自身の意思の問題です。

たとえサタンの妨げがあったとしても、自分の意思でその壁を越えて、罪に定めなければ

なりません。これを出来ない、怖いと言ってに逃げていてはいけないのです。御霊は、

「罪に定める責任を自分の意思で表わしなさい」と勧めます。それを「自分にはできない、

告白すれば、自分の罪があからさまになる」と言ってごまかしてはいけません。私たちは、

イエス様を信じた時に、この経験しました。だから、今も同じことをするのです。サタンは、

悔い改めを妨げようとしますが、それを振り払い、その壁を今砕くのです。
そして、真に悔い

改める向こう側に入るのです。自分の罪を素直に認めて行くことは、自分がダメになる世界

ではありません。絶対主の赦しが来る世界です。それを始め出しましょう。 

 

 


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