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2017年2月26日



   あずか         
新しい契約に与っている者の生き方

第Ⅱコリント3:6~18


(起)  第Ⅱコリント3章の「モーセの文字による務め」と「パウロの御霊による務め」

について学びながら、「新しい契約に与っている者の生き方」を学んで行きたいと思います。

(承) さて、この箇所では、「モーセの文字による務め」と「パウロの御霊による務め」の

比較がされています。それを順番に説明して行きたいと思います。まず「モーセの文字による

務め」というのは、「絶対主から与えられた律法を語る」という務めです。

モーセは、「律法を守る者は祝福されるが、守らない者は呪われる」と語りましたが、人間は

生まれながらの罪人ですから、律法を完璧に守り切ることは出来ませんでした。すると、

モーセの務めとして、「お前たちは律法を守れなかったのだから、絶対主に呪われる」と

宣言しなければなりませんでした。ですからこの務めは、死の務めになってしまいました

(7節)。しかし、それでもその務めには栄光がありました。なぜなら、律法は絶対主から

与えられたものであり、絶対主の聖なる言葉だからです。ですから、モーセが律法を語って

いる時には、聖なる輝きを放っていました。しかし、律法を語り終えると、その輝きは消え

去って行くのです。ですから、モーセは、その栄光が消え去って行くところを人々に

見せたくなかったので、顔に被いをつけたのです。次に、「パウロの御霊による務め」とは、

何かと言いますと、「新しい契約を語る」という務めでした。すなわち、「救いは、人間の

努力や行いによるのではなく、イエスキリストを信じる信仰による」というものでした。

パウロのこの務めは、モーセの文字による務めのように、やがて消え去って行くような栄光

ではなく、救いに預かることですから、ずっと輝き続けて行くものでした。ですからパウロは、

御霊の務めをしている働きによっては、モーセのように顔に被いをつけなくてもよかったの

です。(12~13節)。しかし、次の14節を見ますと、「イスラエルの人々の思いは、

鈍くなっており、今でも…彼らが古い契約を朗読する場合、その被いが取り除かれないままに

なっている」と嘆いているのです。パウロは、「イエス様が新しい契約を実現して下さり、

モーセの古い契約は廃棄された」と言っているにも関わらず、なお律法にしがみついて

生きて行こうとしているイスラエル人のことを悲しんでいます。すなわち、「どこまでも

自分の行いに頼り、キリストの救いをないがしろにするのですか?」と、ユダヤ人の愚かに

ついて指摘しています。


(転) しかしながら、そのような生き方をしているのは、イスラエル人だけではあり

ません。クリスチャンである私たちも、実は同じことをしているのです。私たちも、幼い頃

からの教育によって「正しい道に歩み、良き人間になるように」と教え込まれてきました。

ですから、良き人間になろうとすることは、子どもの頃から正しいことであり、たとえ形だけ

の見せかけであろうと、そのことは正しいという思いが染みついており、「何故それがいけ

ないの」と、クリスチャンになってもこの考えは変わっていません。むしろ、クリスチャン

になったのだから、かえってその心は必要だと思っています。本当は、生まれながらの罪人

ですから、心の中にはいつも汚い思いがあり、とても良き人間になれるような者ではない

はずなのに、そう考えるのが正しいと思ってしまうのです。
だから、生まれながらの罪人の

汚い部分に被いをし、良い子振って生きて行こうとしてしまうのです。


しかし、それは間違っています。そもそも、私たちが受けた救いというのは、自分自身の

行いにかかっているものではなく、ただイエス様の贖いのおかげで与えられたものです。

それなのに、イエス様の贖いに目を向けず、出来もしないのに、自分に頼ってクリスチャン

らしさを表そうとするのです。これは、絶対主の嫌われる偽善です。私たちが目を向けるのは、

イエス様の贖いです。そこに心を向けたならば、無駄な被いは取り除かれ(16節)、

「自分は何も出来ない罪人であるという現実をそのまま認めて、イエス様の恵みの中で生きて

行けるのです。」だから、罪人の汚い部分を被いで隠し、良い子振って生きて行くのは

間違っています。被いで隠したところで、その汚い部分が消えるわけではありません。

ならば、素直に罪人であることを認めて、罪人として遜って行けばいいはずです。逆にそれを

表に出して、粋がったとしても、絶対主から「お前は永遠の地獄だ」と言われてしまいます。

なぜなら、それは、キリストの贖いを否定することになるからです。絶対主は、私たちが

罪人であることを分かり切った上で、イエスキリストによる新しい契約を与えて下さった

のです。

(結) このようなわけで、私たちは罪人の自分に被いをかぶすのではなく、むしろ認め

続けて行くのです。本当のところ、私たちは何も出来ない、劣等感の塊で、失敗ばかりして

いる者です。でも、それが私たちの生の姿なのですから、それを認めて、そこからキリスト

を見上げて行けばいいのです。そして、イエス様の助けを受けて、「絶対主の御心に適った

ことを、一つ二つやらせて下さい」と、へりくだって祈って行けばいいのです。良き事は、

自分でするのではなく、やらせていただくのです。これこそが、イエスキリストの救いに

与った者の正しい生き方です。私たちは、律法が語られると、ついその気になり、それを

しているような気になってしまいます。しかし、「自分はそんな良い人間じゃない」と、

ストップをかけて下さい。私たちはもう、律法による行いによって救いを全うしようとする

者ではなく、命の契約に与っている者ですから、その中にある者として、へりくだって

歩んで行きましょう。 

 

 


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