(起) クリスマスメッセージとして、「私たちが絶対主から与えられた使命は、悪魔との戦い
である」ということをマリヤさんの心から学び、「滅私奉公の心」を持って、その使命を全うし
て行くことを学んでいきたいと思います。
(承) さて、マリヤさんにとって、処女である自分が子を産むということは、大きなリスクが
ありました。一つ間違えば、石打ちの刑にされます。また、両親も冷たい目で世間から見られ、
ヨセフさんは、婚約解消も考えなければなりませんでした。しかし、マリヤさんは、実に
「滅私奉公」の心を持って、「わたしは、主のはしためです。お言葉通り、この身に成ります
ように」と、毅然と信仰に立ったのです。私たちの教会には、一つ足りない者があります。
それは何かといいますと、この滅私奉公の心に立つ、「砕かれた悔いし心」です。「砕かれた
悔いし心」とは、絶対主を第一として、自分のことは二の次です。なぜなら、自分はただの
罪人に過ぎませんから、「自分は罪人で、何もできない者です。もうお手上げです」という
ことを、心底、正直に認める心です。それが、マリヤさんの「わたしは主のはしためです」
という表明です。絶対主は「その心から始めなさい」と言って、これからの働きに使おうと
考えています。実にマリヤさんも、そこから用いられました。しかし、私たちはこの世の損得
の影響で、過ちを犯したらその失敗を取り戻すことがまず最優先で、謝罪は口先だけで、後は
自分の力に頼って取り戻して行くことが正しいと思っていました。だから、心底罪人である
ことを認めず、かえって「もうお手上げです」と落ち込んでいたら、ほんとにダメになって
しまうと思い、やせ我慢でも、自分の力に頼ってやって行こうと考えてしまうのです。
そうしないと「やる気があるのか?」と叱られ、信頼を失うからです。だから、100%謝る
ことをしてきませんでした。しかし、これは、やせ我慢の典型で、本気の覚悟を持った
「滅私奉公の精神」ではありません。罪を犯してしまった時には、自分が犯した罪を100%
正直に認めたところから、主に頼った本気の行為が生まれてくるのです。マリヤさんは、
やせ我慢をして、子を産むことは出来ませんでした。石打ちの刑さえ降りかかってくるから
です。それは、人間的な強さでは耐えきれないことです。ですから、自分を「主のはしため
です」と完全に遜るところから、このリスクを受け入れ、主にお委ねしたのです。それは、
「やせ我慢の一生懸命さ」ではありません。一つも自分の信仰深さとか、自分の力に頼って
受け入れたことではなかったのです。そこにあるのは、女の弱さの原点に立って「はしため」
です、と受け入れた遜りでした。決して、自分の力を根拠にして、受け入れたことではありま
せん。私たちも、やせ我慢して「もう二度とやりません」と言っても、また次の日には同じ
ことを繰り返してしまう愚か者です。もし、自分の誠意をもって謝れば、二度と同じ過ちを
犯さない人間になれるという訳でもありません。生まれながらに罪人であり、心の中に魔物が
潜んでいるのが現実です。ですから、「もう二度とやりません。」と言えるような者ではない
のです。口先だけのものは、 絶対主の心を逆撫でするだけです。むしろ、「二度とやりま
せん、なんて言える人間ではありません。私は、何度も同じ罪を犯す罪人に過ぎません」と
正直に認める心が必要です。絶対主はまずその遜りを求めておられるのです。なぜなら、その
砕かれた心こそが、罪人にできる真実だからです。その遜りに立ったところに、主は信頼され、
マリヤさんのように「お言葉通りなりますように」という心を抱いたところに、主は働きを
起こされるのです。そして、その心を持つ者には、御霊様の助けを受けることができるのです。
ですから、私たちに言えることと言えば、「私には、何も当てにできるものがありません。
もうお手上げです。ただ、主のお言葉通りなりますように」という心だけです。その心を
持って初めて、マリヤさんのように絶対主に在って生きて行く、歩みが始まるのです。
(転) しかしながら、「絶対主に在って生きて行く」という表現は、ものすごく抽象的で、
具体的には何をやったらいいのか分かりません。そこで聖書を見て行くと、その部分が明確に
示されています。エペソ1:10を見ますと、「それは、時が満ちた時に成就する絶対主の
救済計画に関わるものです。・・・キリストにあって万物を集大成されるのです」とあります。
ここに、最終的な絶対主のご計画があります。絶対主は世の終わりに、この地の悪を精算し、
キリストにあって万物を集大成されます。その時に、敵となる者は誰でしょうか。
ルシファーです。今まで絶対主に散々逆らい、絶対主が造られた人間の心も壊してきた悪霊を
滅ぼすことが、絶対主にとっての集大成なのです。ですから、私たちはこの悪魔に立ち向い、
主を仰ぐ心に堅く立って、戦わなければなりません(第Ⅰペテロ5:9)。世の終わりには、
666が出現し、「彼は聖徒に戦いを挑んで勝つ」ことが許されています。だから、患難時代
では、私たちは悪魔と戦って勝つのではなく、負けるでしょう。しかし、負けるというのは
信仰を失うことではなく、「この命を失うことがあっても、信仰は失いません」と、死に至る
まで忠実であることを表明することです。この戦いは、私たち自身の戦いではなく、私たち
の大殿である絶対主の戦いですから、私たちはマリヤさんのように、命を懸けて信仰を悪魔
に突き付けていくのです。だから、私たちは、死んでも良いのです。絶対主は、「たとえ命を
失っても、最後まで信仰を捨てなかった」という、「死に至るまで忠実な者たちがいる」こと
を、悪魔に突き付けたいと考えておられるからです。だから、これこそが私たちが悪魔に
立ち向かう「滅私奉公の心」なのです。
(結) 私たちの使命はこれではっきりしました。今後、この悪魔との戦いが、私たちの地上
での最後の仕事です。患難時代に入ったら、私たちは悪霊を追い出すことはできません。
その時には、彼らが勝つからです。ただ、今は最後のリバイバルの時ですから、その為に悪霊
の妨げを取り除き、絶対主を信じる方々を起こしてもらうのです。この働きを命懸けでして
行きましょう。どうか、マリヤさんのように本当の滅私奉公の心を持って、絶対主から与え
られた使命を全うしようではありませんか。福音の始まりは、このマリヤさんの「滅私奉公の
心」から始まりました。ですから、終わりの時代のリバイバルも、この「滅私奉公の心」から
始まるのです。
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