(起) 使徒の働き3章12節から「自分の力や信仰深さで、あの人を歩かせた」という、
「自己主張を砕き、ただ絶対主の意向に従って行く」ということを学んで行きたいと思います。
(承) さて、使徒行伝を読んで行きますと、使徒たちが、イエス様と一緒にいた頃とは随分
信仰の姿勢が違うことに驚きます。例えば、今日お読みした3章では、生れながらの足なえが、
ペテロとヨハネを通して癒されるという奇跡が起こりました。すると、それを知った人々が
大勢集まって来ました。そこでペテロは、彼らに対して「なぜこの事に驚いているのですか。
なぜ、私たちが自分の力や信仰深さで、あの人を歩かせたかのように、私たちを見つめている
のですか」(3:12)と言いました。しかし、今までのペテロたちであったなら、むしろ
そのように見られることを求めていたことでしょう。以前の彼らは、「たとえ死ぬことが
あっても、あなたに従って行きます」と主張し、皆がそれに同意しました。まさに彼らは、
自分たちの力や信仰深さで、「イエス様に従って行くのだ」という誇りを持っていました。
ところが、使徒行伝を見て行くと、彼らの姿勢がガラッと違っていました。3:16を見ると、
「甦られたイエスをこの男が信じたことによって、イエスの御名が、この人を強くし、その
信じ仰ぐ心が、完全に癒したのです」と言って、「決して自分たちの力や信仰深さで彼を
癒したのではない」ということを、ハッキリと宣言しています。彼らがこのような表現が
できたのは、彼らの心が砕かれ、以前とは180°変わっていたからです。
(転)では、これほどまでに使徒たちの心が変わった理由は、どこにあったのでしょうか。
それは、「聖霊のバプテスマを受けたから」というのが直接の原因ではありません。
もちろん、聖霊のバプテスマを受けたことによって彼らの心が取り扱われ、そこから彼らの
働きがスタートしたということは、間違いありません。しかし、聖霊のバプテスマによって、
彼らの心が変わった、というわけではありません。実は、彼らは聖霊のバプテスマを受ける
前に大事なことを学んでいたのです。それは、ペテロが「イエス様を知らない」と三度も
言ってしまったあの経験です。あの挫折を通して、彼の正義感は完全に砕かれました。
それはペテロだけに言えることではありません。「たとえ死ぬことがあっても、私はあなたを
知らないとは言いません」とペテロが言った時、他の弟子たちも同じように言い切ったのです。
ところが、いざイエス様が十字架につけられる時が来たとき、弟子たちは皆、恐怖にかられ、
イエス様を見捨てて逃げて行きました。人間の正義感というものは、こんなにも簡単に崩れて
しまうのです。それは、人間の心の中に、恐ろしい魔物が潜んでいるからです。
その魔物とは、自分を守る心、自分を大事にする心です。言葉を換えると、自分の正しさを
自己主張する「自我」です。もし、私たちがその魔物を抱えたまま患難時代に入って行ったら、
私たちは「決して絶対主を裏切らない」と言い切れるでしょうか。「できません」。私たちも、
ペテロたちと同じように、いざとなったら自分自身を守って逃げてしまうかもしれません。
それは、666に降参することです。私たちには、その危険性があるのです。だから、
私たちは今、「自分を中心にした心、自分を誇ろうとする心」を砕き、考え方を180°変え
なければなりません。すなわち、私たちはもうイエス様によって永遠の命を頂いているのです
から、この命を自分で守る必要はありません。救われた後の残りの生涯は、この命を絶対主の
ためだけに使うのです。そうすれば、「自分を守りたい」、「自分の正しさを分かってほしい」
という自己主張は、吹っ飛んで行きます。
(結) そこでもし、「これから主の役に立つ者として仕えて行きたい」という願いがある
のなら、この心をしっかりと刻んで下さい。そして、考え方を入れ替え、「自分の主張よりも、
まず聞き従う方に、心を向けて行くこと」です。何があってもリーダーに聞き従い、御霊様に
聞き従い、絶対主に聞き従うのです。絶対に、自分の都合と損得で判断してはいけません。
すなわち、自分中心な考えで判断してはいけないのです。私たちは、イエス様の贖いの御陰で
救われ、自分の命の預けどころを知りました。ならば、もう自分自身の身を守る必要はないの
です。また自己主張をする必要もありません。自己主張は砕き、ただ「主よ。あなたの御心の
ままに」と言って、絶対主の意向に従って行くことが全てです。どうか、この砕かれた悔いし
心を持って、どこまでも絶対主に従って行きましょう。そして、空っぽの器に油を満たして
いただいて、使徒たちと同じように大胆に用いていただこうではありませんか。
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