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2017年10月1日

『自分の考えを否定し、「絶対主は正しい」という
土台に立って始め出す』


マタイの福音書16:13~28


(起)ペテロの失敗の記事を通して、「自分の考えを徹底的に否定し、『絶対主は正しい』という

土台に立って、始め出す」ということを学びたいと思います。


(承)さて、イエス様が弟子たちに、「人々は、わたしのことを誰だと言っていますか」と

尋ねられると、弟子たちは、「バプテスマのヨハネだ、エリヤだ、エレミヤだ、預言者の一人だ

と言っています」と答えました。そこでイエス様は、「それでは、あなた方は、わたしを誰だと

言いますか」と尋ねられると、ペテロが、「あなたこそ、生ける絶対主の子キリスト(メシヤ)

です」と、はっきりと答えました。それを聞いたイエス様は、「あなたは幸いです。あなたに、

この事を啓示されたのは、血肉ではなく天にいますわたしの父です」と言われたのです。

ところが、イエス様がその後で、「わたしは、祭司長、律法学者たちから苦しみを受け、

殺され、三日目に甦ります」と弟子たちに示されると、ペテロは突然イエス様に「主よ。

とんでもないことです。そんな事があってはなりません」と言って諫め始め、イエス様の言葉を

遮ったのです。なぜかというと、ペテロの中に「あなたはメシヤです。 ユダヤ人の王なら

死んでは困ります。ユダヤ人の王となられる方が死んでしまったら救世主にならないではない

ですか」という思いがあったからです。この時、ペテロ自身は、「自分の考えは正しい」という

強い確信を持っていました。しかし、このペテロの考えは、イエス様から見ると、正反対だった

のです。もしペテロが言ったように、イエス様が十字架につくことをやめてしまったら、人間の

罪の贖いは未完成になってしまいます。そうなってしまったら、まさにサタンの思う壺です。

だからイエス様は、「サタンよ。引き下がれ。あなたは、わたしの邪魔をする者だ」と言って、

ペテロを叱られたのです。このように、人間はいつも、「自分はこう思う」という考えに、

すぐ立とうとします。だから、ペテロのように直感で判断すると、とんでもない過ちに陥って

しまうのです。


(転)では、私たちの場合はどうでしょうか。実は、私たちもペテロと全く同じ失敗を

繰り返している者です。私たちは、自分の感情ですぐ相手を判断しようとします。
しかし、

相手の主張を相手の立場に立って考え、それが絶対主の前に正しいかどうか、よく考えなければ

なりません。
私たちは、30年間同じメッセージを聞き続けて来て来ました。しかし、その

メッセージが心に留まらないのは、何故でしょう。それは、ペテロのように、自分自身の知性や

感情で、この世の見方と自分の経験から判断しようとし、「私はこう思うけど」という強い

意識が先立っているからです。どこまでも、自分の考えに立って、自分の感情を土台にして

メッセージを聞いても、心の悟りにはなりません。自分の考えに反するものは無意識に退けて

聞いてしまうからです。ですから、いくら筋道を立てて話されても、心に結びつきません。

なぜなら、「私はこう思う」という「我」が自分の考えと反するものを追い出し、「確かにそう

思うかもしれないけど、私にはできない」という、頑なさを砕くことをして来なかったから

です。私たちは、普段からそれを当たり前の権利としてやって来たのです。しかし、それは

間違っています。
私たちはキリストを信じる者となり、自分の命の絶対主を知った以上、主権が

自分にあるのではなく、絶対主に主権があると分かったはずです。それなら、被造物である

私たちが無条件で絶対主に従うのは当然です。
また、たとえ自分に理解できない事でも、

絶対主が「こうだ」と言われたなら、それは無条件で受け入れて行くべきです。ところが、

多くのクリスチャンは、信じてからでもなお自分の考えに立ち、自分が理解できることしか

信じようとしないのです。これは、私たちの命の主に対して、ものすごく傲慢で、横柄な

態度です。先程もお話ししたように、人間の知性で、いつも正しい判断ができるわけでは

ありません。「自分が正しい」と思えることでも、間違いであることが往々にしてあるのです。

罪人がいつも正しいと言える根拠はどこにもありません。いつも正確な正しい判断が

できるのは、絶対主しかありません。ですから、私たちは、「絶対主が正しい」、「聖書に

書いてあることが正しい」というところに立って、「絶対主が言われること、聖書に書いてある

こと」を、そのまま受け入れて行くべきなのです。
自分で理解できようができまいが、絶対主が

「それでいい」と言われたなら、「それでいいのです。」
そこに立たなければ、私たちは絶対主

と永遠に繋がりません。


(結)こういうわけで、「自分の考えが正しい」と思ってそれを強引に主張することは間違って

います。罪人である私たちは、絶対主の前で、自分の軽薄さの故に間違った判断をしているかも

知れません。だから、いつも遜りの心を抱いて、控え目の 心を持っていて丁度です。自分の

知性で考えることが、いつも正しい答えを出すとは限らないのです。だから、自分の考えが

「こうだから、しょうがない」という頑なさを砕いて、自分の考えから離れて、「聖書にはどう

書いてあるか。絶対主はどのように言われているか」というところをいつも見て判断して行くの

です。そうすれば、ペテロさんのように「あなたは私の邪魔をする者だ」と言われることはなく

なります。だから、
私たちは、自分の頭を使ってあれこれ考えて行くのではなく、どこまでも

絶対主のお考えを聞いていく習慣を身に付けて行くべきです。だから、いつも「絶対主は

正しい」という信頼に立って判断をして行こうではありませんか。ならば、私たちは絶対主と

繋がります。
どうか、自分の考えを徹底的に否定し、「絶対主は正しい」という土台に立って、

始め出しましょう。 
 

 


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