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2016年1月8日
『全能主と繋がる秘訣』

ルカの福音書9:18~27

(起) 信じた者が「全能主と繋がる秘訣」について、学んで行きたいと思います。

(承) さて、ルカ9章23節を見ますと、「わたしについて来たいと思うなら、自分を徹底的に

否定して、日々自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」とあります。この「自分を

徹底的に否定して、自分の十字架を負う」ということは、分かりやすく言うと、「自分の死を

負って行きなさい」ということです。しかし、それは単なる死ではなくて、辱めを受け、

「罪人として完全に堕ちきった状態になる」ということです。実は、その歩みを実際にされた

のがイエス様です。イエス様は、人の罪の報いを代わりに負うために、鞭打たれ、拷問より

激しい不当な苦しみを受けられ、尚且つ、瀕死の状態で十字架を担がされて、ボロボロの姿を

人前にさらけ出されました。それは、人の子として完全に面子を失った悲惨な姿でした。

その前夜のゲッセマネの園では、「どうか、この杯を過ぎ去らせて下さい」と、血の汗を

流しつつ父に祈られたのです。イエス様は、それほどの恐れと、逃げ出したい程の恐怖に

襲われていたのです。それでも最後には、「父の御心のままに」と言って、すべての辱めを

受ける道を選ばれました。


(転) では、イエス様がそこまでされたのは、何のためでしょうか。それは、ひとえに私たちの

罪の贖いのためです。「罪の贖い」ということは、私たち罪人が受けるべき報いを、イエス様が

代わりに受けて下さったということです。実は、本来ならその苦しみを受けるのは、私たち

自身であった筈です。ならば、罪を犯し続けている私たちなら、今でも、その辱めを自分自身が

受けて当然です。
ところが、多くの人たちは、「そのような辱めを受けないようにされたのが

救いだ」と勘違いしています。だから、「自分は罪人だ」と頭では理解していても、罪人として

恥を受けることや、メンツを失って惨めな状態を味わうことを嫌っているのです
。
しかし、

それは絶対に間違っています。私たちが受けた救いは、自分の罪の報いをこの地上で受けないで

済むようにされたものではありません。救いというのは、罪人が、永遠の呪いの中に

投げ込まれるところからの救いです。ですから、過去のクリスチャンは、キリストの故にたとえ

拷問を受けて、苦しみを受けることがあっても、永遠の救いに希望を抱いて殉教して行ったの

です。ですから、私たちもこの地上で犯した自分の罪の報いぐらいは、当然の事として受けて

行くべきです。
キリストの救いは、罪人としての自覚を持っている者に対する救いであって、

罪人が罪を行っても、罪人でないように装って、自分のメンツを守られていく為の救いでは

ありません
。
罪人が永遠の救いを頂いたのなら、この地上で犯した罪の報いぐらいは、どんなに

惨めな状態を味わう事であっても、受けるべきです。それが、罪を認めた人間の正直な罪人の

証です。キリストの救いは、罪人を救うためですから、自分を守って、罪の報いを受けようと

しない者には与えられません。自分を義とするものは、自分の力で自分を救ったらいいのです。

イエス様は、自分を義とする者の為に、あれだけの苦しみを受けて下さったのではありません。

ならば、私たちは、罪人である自分が受けるべき報いから逃げてはいけません。
その報いを

受けることから逃げる者は、自分が罪人であることを否定することなのです。ここに、私たちが

全能主と繋がらない原因があります。
全能主と繋がるためには、イエス様が味わわれたように、

人前で恥をかき、メンツも何もかも失い、堕ちきった状態になることです。その苦しみ、惨めさ

を負って初めて、罪人であるという自分の現実を認めたことになるからです。その者に対しては

全能主は、「お前は、人前で自分の罪の恥を受けた。罪人であることを明らかにした。

それでいい。なぜなら、そのお前のためにイエスが死んだのだから、イエスの贖いの故に

わたしはお前を赦す」と言って下さいます。そこで初めて平安を味わい、全能主との繋がりが

生まれてくるのです。


(結) ですから、全能主と繋がる秘訣は、私たちが罪人としての報いを受けて、完全に堕ち切り

続けることです。全能主は、私たちが恥も外聞も捨てて、完全に罪の報いを受けたその姿を

見て、我が子を殺してまで罪人を救おうとされたことを、「よかった」と安堵されるのです。

だから、罪人である私たちが、頭では「罪人です」と言いながら、自分を守って罪の報いを

受けようとせず、完全に堕ちきる手前でメンツを保って逃げるなら、その人は天の御国には

繋がりません。私たちは罪人ですから、罪の報いとして泥を被って行くのは当然のことです。

その苦しみ、惨めさを負い、完全に堕ちきって初めて、全能主からの赦しと平安が来くるの

です。この経験を今なお味わっておらず、恥をかくことから逃げている人は、どうか、「悔いし

砕けた心を持って、自分を裁きの許に委ねましょう。」この経験は地上にある限り、続けて

行くものです。なぜなら、救われても罪が清められるのは、御国に引き上げられた時だから

です。この地上にあっては、死ぬまで罪人です。ですから、
罪を指摘されたならば、

その度毎に、堕ちきった自分の姿を見て、「そのとおりの者です」と受け止めるのです
。


そうすれば、全能主は「それでいい。罪人であるところからもう一度始めなさい」と言って

下さるのです。どうか、この真理に目覚めて、全能主に繋がる歩みを始め出そうでは

ありませんか。 

 

 


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