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2017年1月15日



救いの門とは、罪人としての自覚を最後まで持ち続けていくこと

ルカの福音書13:22~30


(起)ルカ13章24節の「狭い門から入りなさい。そして、そこから入るように賢明に

つとめなさい。」という御言葉から、「私たちの救いの門は、罪人としての自覚を最後まで

持ち続けて行くことである」ということについて、学んで行きたいと思います。


(承)さて、この箇所では、「天の御国に入れる者は少ない」という内容が語られています。

26節を見ますと、「私たちはあなたとご一緒に飲み食いし、また、あなたは私たちの大通りで

教えて下さいました」とあります。そのように言えるということは、その人は、いつも

イエス様の側で御言葉を聞き、イエス様と一緒に食事をするほどの霊的な世界の中に置かれて

いたということです。しかし、そのような人であっても、「あなた方がどこから来た者なのか、

私は知らない。不義を働く者どもよ。皆私から離れて行け」(13:27)と、イエス様から

遠ざけられてしまう可能性があるということです。実は、これは私たちにも言えることです。

私たちも、イエス様からいろいろなことを教えて頂いてここまで来ましたが、この後、

患難時代に入った時、もし恐れて自分の身を守り、悪魔の側についてしまったら、

イエス様から、「あなたのことなんて知らない」と言われてしまう可能性があります。

厳しい世界ですが、これが現実です。だから、「狭い門から入りなさい。そして、そこから

入るように懸命に努め続けなさい。なぜなら、多くの人が入ろうとしても、入れないのだから」

と、イエス様は語られたのです。


(転)では、「狭い門から入る」とは、どういうことなのでしょうか。それは、最近学んでいる

ように、「私たちは罪に堕ち切った罪人だという自覚を持つ」ということです。すなわち、

「自分は底辺にまで堕ちきった、罪人であるという自覚を100%受け止めている者でないと、

天に繋がらない」
ということです。となると、これは本当に狭い門だと思います。なぜなら、

ほとんどの人が、「堕ち切ってしまったら自分は終わりだと思い、落ちきる前に一生懸命

努力して、何とか這い上がって行こう」と考えているからです。そのような人は、たとえ挫折を

味わったとしても、完全に堕ちきる所までは行きません。彼らは、「自分は駄目な人間だから、

教会に行けるような者ではありません、だから教会に行きません。」と、結論を出すのです。

これは、一見堕ち切っているように見えますが、実はそうではなく、結局は人前にダメな自分を

さらけ出すのが嫌で、堕ちきる手前でメンツを保って逃げ出す行為なのです。確かに、

「取り返しの付かないことをした時、自分のような人間は絶対主に受け入れられない。教会にも

行けない」と思うでしょう。しかし、それで本当に教会に行くことをやめ、絶対主から

離れてしまったら、「これで自分の救いは終わりだ」ということになることが分かっていても、

へりくだって謝ろうとせず、自分のわずかばかりのメンツを保って、逃げ出すのです。

その人は、罪人のために命を捨てて下さったイエス様のことを知っていながら、そのお方と

繋がる道をあきらめ、自分が恥をかかない道を選ぶのです。すると、本当に望みを失って

しまいます。ならば、私たちは、恥も外聞も捨てて、「こんな者ですが、自分ではどうにも

なりません。這い上がることも出来ません。イエス様から離れたら、自分はやっていけません」

と、へりくだって、自分の方から教会に行くべきです。

その時には、「自分のメンツを保つことも出来ず、自分を助けてほしい。守ってほしい」という

気持ちさえ持つことが出来ないのが丁度の心です。さらに、赦してもらう資格もなければ、

励ましてもらう資格もないのです。だから、罪人の自分は、「それが自分自身の現実だ」

ということを認めて謝りに行くだけです。その堕ち切った自分自身をそのまま絶対主の前に

持って行った時、初めて絶対主から「それが分かったならそれでいい。そこから

始め出しなさい」という、思いがけない言葉が返ってくるのです。実は、あの姦淫の現場で

捕らえられた、マグダラのマリヤさんは、そうしたのです。罪人の私たちも、恥も外聞も

捨てて、この門から入って行かなければなりません。ここまで行く人は本当にわずかだと

思います。だから、
狭き門だとイエス様は言われたのです。

(結)こういうわけですから、私たちが生涯持つべき心は、「自分は堕ち切った罪人である」と

いう、現実を認めて、へりくだった心、悔いし砕かれた心を持って、絶対主の前に歩み続ける

ことです。少なくとも、絶対主と繋がるためには、正しい人間になって受け入れて貰うのでは

なく、罪人その者であるとへりくだって行くところに繋がりが生まれるのです。
イエス様の

救いに預かろうとする者は、成功した自分を持って行くのではなく、逆に、「自分たちは地獄に

行く者でした」という心を持って、丁度です。
そして、命閉じるまで罪人としての自覚を

持ちながら、この世を閉じるのです。私たちの救いの門はここにあります。どうか、この真理を

悟り、天に繋がる心を持って、歩み始めましょう。

 

 


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