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2016年 NO.561


 
罪人の自分と、義とされた自分を統一できない、
真理の二面性


 私たちの意識の中には、いつも「どうしたらいいのだろー」と、問題の解決を1つの

答えの中に見いだそうとします。それは真理は1つであるという先入観を持っているから

です。しかし、絶対主の書かれた聖書には、決して真理を1つに統一されていません。

例えば、@「イエス・キリストが肉体をとって来られた絶対主の御子(第Tヨハネ4:2)」

とありますが、イエスは、人間で あると同時に、イエスは絶対主の御子であるという

真理は、全く正反対の二面性です。

A「神は唯一であり(第Tテモテ2:5)」、「キリストは真の神、永遠の命です。

(第Tヨハネ5:20)」とあります。しかし、「キリストは神の右に座す」

(コロサイ3:1)とあり、「あなた方が、自分の神だと言っている御方こそ、わたしの父

です。(ヨハネ8:54)」とあるように、キリストと父は全く別の方です。ですから

キリストと父を同一の方とすることはできません。唯一ですが別々です。「三位一体」

という場合、夫婦が一体という意味ならOKですが、三位が1つの同一の方とするなら

間違いです。

B「御子を信じる者が一人も滅びることなく、永遠の命を持つ。(ヨハネ3:16)、

また「聖霊にあずかる者となり・・・堕落した場合・・・呪われ遂には焼かれて

しまいます。(ヘブル6:4〜8)」とあるように、「信じる者が滅びないとあり、

また呪われて焼かれてしまう。」という両面性が記されています。すなわち、聖書は、

至る所で、真理の二面性又は、両面性を記しているのです。この二面性を統一して、

1つの真理にしようとする神学には無理があります。人間は、二つの面を示されると、

必ず「どうしたらいいの?」と考え、1つの答えを見い出そうと足掻(あが)きます。

それは、私たちの信仰のあり方にも言えます。キリストを信じて義とされた自分

(ロマ5:9)と、依然、生まれながらの罪人のままの自分(ロマ7:14)の両面性が

存在します。そこで、私たちは、罪人である自分を義とされた自分に統一しようと

足掻くのです。しかし、
いくら義しい人間になろうとしても、罪の意識が増すだけで、

惨めな自分は変わりません。
それは、罪人を義人に統一しようとすること自体が無理だから

です
この罪人のレールと義人のレールは決して交わりません。罪人の自分は死ぬまで

変らないのです。しかし、この罪人が救われたことは事実ですから、罪を棚上げせず、

罪を犯した場合は告白して、罪の責任を取るならば、罪は赦され、罪の道に歩んでいた

自分は、別の義人のレールにあって、歩み出します。義人のレールは、ただイエスキリスト

を信じ仰ぐことによって生きる生き方です
。そこには、「これでいいんだ」という平安が

生れて来ます。こうして相反する罪人の自分と義人の自分が、一人の自己の中で

同居している事実があります
ので、その中で、罪人の自分は罪を認めて砕いていくだけだと

悟り、罪の責任を取ってその歩みを停止し、義人とされた別の自分のレールの中で歩む

選択をするのです。これが、命を閉じる時まで、クリスチャンの成すべき自由意志の

選択です。「今、肉体にあって生きているのは、・・・御子を信じ仰ぐことによって生きて

いるのです。(ガラテヤ2:20)」という自由意志を働かして、信仰の道を全うして

行こうではありませんか。


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