ショートメッセージ
  
  
教 会 案 内 牧 師 紹 介 定 期 集 会 特 別 集 会
定 期 メ ッセージ  シ ョ ー ト メッセージ 福 音 の 話
行   事 教 会 新 聞 掲 示 板 リ ン ク 事 務 室
2016年 NO.560


 
底が抜けている信仰

「底抜け」という言葉は、良い意味でも、悪い意味でも使われますが、霊的な意味での

「底が抜けている」とは、霊的な迷いと曇りのない信仰の表現であり、今の私たちには、

真理を表すピッタリの表現だと思います。なぜなら、
キリストの救いに与ったクリスチャン

は、「多くの罪が赦されてしまったからです」
(第Tヨハネ2:12)。しかしながら、

真理には両面性がありますので、「ことさらに罪を犯し続けるなら、・・・焼き尽くす

激しい火を待つだけです」(ヘブル10:26〜27)、とあるように、
罪から救われた者

でも、自分の意志によって失うこともあります。
このことは、罪を犯したら、問答無用で、

焼き尽くす火の中に入れられるというのではありません。ただ、「自分の犯した罪を認め

続けて行くなら、絶対主は真実で正しい方ですから、それらの罪を赦し、きよめて下さる」

(第Tヨハネ1:9)とあります。ですから、
「ことさらに罪を犯し続ける」とは、

クリスチャンが自分の罪を認めず、「白を切って棚上げにする」
クリスチャンのことです。

絶対主は、御子によって人間の罪を贖って下さった以上、罪を認めず棚上げにする行為だけは

嫌われます。しかし、人の現実は、贖いを受けただけで、罪がなくなったわけでは

ありませんので、救われても罪人に違いありません。だから、救われても罪を犯して

しまいます。しかし、絶対主はその事もご存じの上で、「罪を犯したら、それを認めて

その責任だけは取って来いよ」と言われているだけです。なのに、「ことさらに罪を犯す」

ということは、その罪を認めず、責任をとろうとしないことですので、罪人が罪を

認めなければ、キリストによる罪のための生け贄は無効になってしまうのです。なぜなら、


キリストの贖いは、罪を自覚せずに人の所為にして、自分の義に頼っている者を救いに

来られたのではありません。あくまでも、救いは罪に苦しみ、自覚している人間のためです。


だから、
「律法によって義と認められようとして、自分の義に立つ者は、キリストから

関係が切られるのです」(ガラテヤ5:4)。
このことが分ったら、罪人が罪人であること

を認めて、罪を認め続けて行くへり下りさえあれば、それで良いということが分ります。

これが分れば、ただ恵みに感謝して、自分の罪を認め続けて行く「砕かれた心」だけは

持って行きましょう。クリスチャンの救いは、「この世の命を閉じた時、罪を拭い取って

下さるイエス様によって、御国に入ることです」。ならば、地上では罪人として自覚して

行けば良いので、霊の迷いはなくなります。これが「底が抜けた信仰」です。どうか、罪を

認めた霊的に迷いのない、底の抜けた信仰に立って行きましょう。

 *メニュー
      * 教 会 案 内
      * 牧 師 紹 介
      * 定 期 集 会
      * 特 別 集 会
      * 定期メッセージ
      * ショートメッセージ
      * 福 音 の 話
      * 行       事
      * 教 会 新 聞
      * 掲  示  板
      * リ  ン  ク
      * 事  務  室