黙示録には、信者は患難時代を通って行くことが明確に記されています。(6:11、
7:14、13:7、13:10、14:12、14:13)。そして、黙示録では、
携挙された14章16節以後には、聖徒は出て来ません。又、イエス様が語られた三つの
福音書には、「荒らす憎むべき者」が現われた後にイエス様の再臨が起り、その後に「一人は
迎えられ、一人は取り残される」という携挙の記事が出て来ます。すなわち、患難時代は、
クリスチャンの全てが通って行く所なのです。また、「聖徒の忍耐がここにある」とか、
「今より後、主にあって死ぬ者は幸いである」と記されている通り、「死に至るまで、
忠実であれ」と言われるクリスチャンの殉教が起るのです。さて、9章では、患難時代の
半ばに起る「いなごの害」が記されています。その害は、「額に絶対主の印のない人間だけ
害が加えられる」とあります。この場合、明確な信者には、印が押されますが、グレーな
「信者が、信者でないか分からない人」には、印が押されません。彼らには、「さそりに
刺される時の激痛が臨み、死を求めても死ぬことの出来ない苦痛が臨む」のです。では、
明確な信者とは誰でしょうか? それは、罪人を救うために来られた救い主に対して、
自分は、生まれながらに罪人であると自覚し、「義人はいない。一人もいない」と言われる
ように、100%醜い罪人としてへり下ってキリストの贖いを受け入れた者は、罪人を救いに
来たキリストと結び付くでしょう。しかし、グレーな信者は、「愛されています」とか
「恵みです」と言われてキリストを信じると告白しますが、自分の罪の自覚は薄く、自分の
罪を見ず、棚上げにして、自分の誇りを重んじ、自分の行いに望みを置き、パラダイスに
入れて頂こうと考えます。このような人は、罪の贖い主であるキリストとの結び付きは、
希薄になります。ですからグレーな信者は、いなごの害を受け、人間の努力に頼って来た
ことへの悔い改めを迫られます。ですから、信者が患難を通る意味は、キリストに明確に
繋がっているか、どうかが試され、キリストの十字架の重みを知ら示められるものとなるの
です。信じると告白しながら、自分の都合の良い御利益を求めて来た信者には、キリストの
命を懸けた贖いは、縁遠くなるでしょう。しかし、ゲヘナの裁きを覚える程に罪を自覚した
人は、キリストの救いの故に自我を砕き、へり下ってパラダイスに望みを置く者となる
でしょう。こういう人は、「絶対主の国と絶対主の義」のみを本気で求めて行く人です。
明確な信者の心は、自分の罪の重みをはっきり抱くところから始まるのです。
|
|
|
|
|