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2016年 NO.548


 
罪の自覚のない信仰告白の空しさ


  聖書に「人は心に信じて義とせられ、口で告白して救われる」と記されています。

ですから、多くのクリスチャンは「信じて義とせられるのだから、もう信じた以上自分は

大丈夫だ」と安易に救いを捉える傾向があります。確かに間違いではないのですが、

それは一面です。他の聖書箇所では、「『キリストは、罪人を救うためにこの世に来て

下さった』という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに足るものです。私は、

その罪人の頭です。」(第Tテモテ1:15)とパウロは言いました。すなわち、罪人を救う

ために来られたキリストは、当然罪の自覚を持った人を救うために来られた訳です。

それなのに、罪の自覚の薄い人に、ただ「愛されている」とか「恵みによって救われる」と

聞かされて、信じたとしても、その人には罪の自覚はないのですから、キリストの救いの

対称にはなりません
。ということは、「ただキリストを信じればいい」というのではなく、

キリストは、罪人の贖いの代価として、ご自分を差し出されたのですから、本当に罪の自覚を

持った人に対してのみ、主は、その信仰の告白のことばを受け留めて下さるのです。救いは、

ただ機械的に、「信じればいい」というものではありません。パウロさんは「自分は罪人の

頭だ」と言う程に、「体に存在する、罪の原理の中に私は、虜にされている。・・・私は、

何という惨めな人間なのでしょう」(ロマ7:23〜24)。と言って、罪人の支払う報いは

死(ロマ6:23)でしかない自分を覚えていました。そんな罪人である者は、キリストの

贖いによらなければ、罪から解放されないのです。ですから、人がキリストを信じるのは、

「罪に汚れた惨めな人間である」という自覚を持って、キリストに救いを求めなければ、

信仰告白も、単なる人間の感傷にすぎません。キリストを信じたクリスチャンの中に、

自分の罪と関わりのない中で、「恵みで救われたのです」、「愛で救われたのです」と言う

人がいても、そういう人たちは、自分を砕かずに、へり下りの心もないので、命を懸ける

だけの信仰を表わすことはしません。パウロさんたちは、このすくいの為に全生涯と全生命を

懸けて行きました
。このキリストの救いによらなければ、永遠のゲヘナの裁きしかないことが

分ったからです。ですから、生まれながらの罪人の自覚を持った人は、
責めをはね除ける

ことはしません。はね除けたら、自分が罪人でないことを主張することになりますから。

キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来て下さった
のですから。

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