(起)「救われた罪人が、持つべき心とは何か」ということについて、学んでいきたいと思います。
(承) さて、ここに出てくる盲人は、生まれつきの盲人で、生まれた時から罪人扱いされ、両親からも
見捨てられていました。それは、旧約聖書の中に、「わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、
四代にまで及ぼし・・・」(出エジプト20:5)とあり、当時のユダヤ人社会では、「親が罪を犯したから、
その報いが子に及んでいる」という考え方が当たり前だったからです。だから、「生まれつきの病人は=罪人」
という感覚が根付いており、この盲人も人々からそのような目で見られ、両親でさえ、彼を見捨てていたの
です。ところが、生まれながらに罪人と思われていた盲人を、イエス様が来られ、彼の目を癒してしまわれ
ました。ということは、「生まれながらの盲人が、罪から解放された」ということです。そして、この癒しによって、
彼の心に大きな変化が起こります。それは、「『自分は生まれつきの盲人で、生まれつきの罪人であった。』
ことを、素直に認めることができるようになった」ということです。それまでは、生まれつき盲目で生まれた
ことを、ただ呪うしかありませんでした。なぜなら、自分には罪を犯した自覚のない前から、罪人扱いされて
いたからです。だから、素直に「自分は生まれながらに罪人である」ということを受け入れることは出来ません
でした。その事実は分かっていても、心で受け入れたくないという反発心があったのです。ところが、
イエス様に癒されたあとはどうでしょうか。今までずっと盲目で、「罪人」というレッテルを貼られ続けてきたの
ですが、それが癒されたとなれば、そのことはもう呪いではなくなります。逆に、「そのとおりです」と受けとめて
しまうことができたのです。パリサイ人たちから、「お前は全く罪の中に生まれていながら・・・」と言われても、
癒されてしまった彼にとっては、もうそれに対して反発をする必要がありません。彼は、イエス様のおかげで
目が開かれ、「自分は生まれつきの盲人で、生まれつき罪人であったのですが、こんな者が救われた」という
喜びを味わったからです。その気持ちがあったが故に、パリサイ人が、いくらイエス様を罪人扱いしても、
彼は反論して譲りませんでした。「生まれつき盲人であった者の目を開けた人がいるとは、世界が始まって
以来、聞いたことがありません。もし絶対主から来た人でなかったら、あの方は何もできなかったはずです」
と、大胆に答えることが出来たのです。
(転) では、私たちはどうでしょうか。実は、私たちもこの生まれつきの盲人と同じ罪人です。私たちも、
生まれながらに罪人で、「全く罪の中に生まれた」人間です。それは、パリサイ人であろうが、また盲人で
あろうが同じです。しかし、その事実は分かっていても、「罪の中に生まれた」ことは自分にとって呪いであり、
それを自分自身の心の中に受け入れることは嫌なことです。ところが、そんな罪人の所へイエス様が来て
下さり、目を留めて救って下さいました。私たちは、全く罪の中に生まれ、とても天の御国へ行けるような者
ではありませんでした。なのに、イエス様のおかげで御国に行ける者とされたのです。ならば、私たちにとって
「生まれながらに罪人であった」ことに、反発する必要がありません。またそれは、決して卑屈なことでは
ありません。たとえ、「お前は全く罪の中に生まれていながら・・・」(ヨハネ9:34)と言われたとしても、あの
盲人と同じように、「その通りです」と答えることが出来るのです。なぜなら、もう救われてしまったからです。
それなのに、自分の罪を指摘された時、それを嫌がるのはどうしてでしょうか。それは、「自分は盲人では
ない、自分は見える」と思っているからです。だから、「自分は、怒られてはいけない。常に褒められることを
やっていかなければならない」という思いが先立つのです。しかし、「誉められることが正しい生き方で、
絶対主に喜んでもらえることだ」と思ったら大間違いです。絶対主の前に一番大事なことは、「自分は
生まれつきの盲人だ」ということです。すなわち、「全く罪の中に生まれた人間だ」ということを受け入れ、
自分自身の欠点や間違いを指摘された時、「その通りです」と素直に認めることです。私たちは、
生まれながらの罪人でした。その生まれながらの罪人が救われたのですから、怒られても、「本当にその
通りなのです。自分はそういう人間です」と認めて行くことは、私たちにとって、素直に心を開いた正常な
人間の心なのです。
(結) このようなわけで、私たちもこの盲人のように、「自分は全く罪の中に生まれた者である」ということを、
心の土台として生きていくべきです。私たちは元々、生まれながらに怒りの器であり、捨てられるだけの
人間でした。しかし、そんな者にイエス様が目を留めて下さって、救って下さったのですから、それだけで
十分ではありませんか。あとは、私たちは自分の力では何もできませんから、素直に心を開いて、言われた
通りにして行くのです。そして「イエス様にあって、自分のやるべきことをやらせて下さい」と言って、どこまでも
イエス様に付き従っていくのです。これが、救われた罪人が持つべき心です。どうか、盲人のようにこの心を
持って、主に従い通そうではありませんか。
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