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2016年4月10日



聖なる都エルサレムに入れていただける者の心

ヨハネの黙示録21:7



(起)「『勝利を得る者』として、聖なる都エルサレムに入れていただける者の心」について、

学んでいきたいと思います。


(承) さて、この黙示録という書は、一般的に「黙示録は分からない書、難しい書」と言われて

おり、多くの人は、黙示録の解き明かしについて書かれた書物を読みながら、それでも他人事の

ように読んでいます。しかし、決してそうではなく、まさに「私たち個人が幸いを得るように」

書かれてある書なのです。そこで、私たちの教会は、人が解き明かした書物によってではなく、

一人一人が聖書をじっくりと読むことによって、書いてある内容や絶対主のお考えを理解させて

頂こうと思って、これまで学んで来ました。そして、教えられて来たことは、クリスチャンが、

ただ御国に入るだけではなく、
「子羊の花嫁として、聖なる都に入る者となるように」とのメッセ

ージが、黙示録にあることを教えられて来ました。そして、そのポイントは、今日お読みした

「勝利を得る者は、これらのものを相続する。わたしは彼の絶対主となり、彼はわたしの子と

なる」(21:7)という言葉にそのヒントがあります。この言葉は、黙示録の最初の方にも

記されている、七つの教会に送られた手紙の中にも出てきます。そこに記されている内容は、

「あなた方は、このような困難な中を通って行くが、その前に、もし悔い改めるものがあるならば

悔い改めて、『勝利を得る者』となりなさい。その者は、聖なる都エルサレムを受け継ぐ者と

されます」ということです。ですから、これは七つの教会だけに語られているメッセージでは

なく、すべてのクリスチャンたちに対して語られている事柄です。これが、黙示録を通して

絶対主が言わんとしておられるメッセージなのです。


(転) では、その「勝利を得る者」とはどのような者のことか、見て行きましょう。それは、

七つの教会に示されているように、
「いろいろな困難に立ち向かい、かつ罪を悔い改めて、死に

至るまで忠実であり、そして『勝利を得る者』となって、聖なる都を受け継ぎなさい」
ということ

です。なぜなら、それこそが、罪人のために救い主イエス様を送って下さった、絶対主の目的

だからです。そこで私たちも、「絶対主が、罪深い私のためにイエス様を送って下さり、救って

下さった以上、この信仰をどんな困難があっても全うして行こうではないか」と思うことです。

絶対主は私たちが、
「この地上のために自分の命を使うのではなく、絶対主のために、この命を

使おう」
という気持ちへと変えられ、そこに懸けていく者になる事を願っておられるのです。

そして、「絶対主の幕屋が人と共にあり、絶対主が人と共に住み、人は、絶対主の民となり、

絶対主の子として永遠の交わりの中に入って欲しい」と、絶対主は考えておられるのです。

ですから、
「死に至るまで忠実であれ」と言われ、「最後まで信じて行ってくれ。そのお前に、

わたしは冠を与えたいのだ」
と言って下さるのです。その者こそが、「勝利を得る者」となるの

です。この「勝利」というのは、地上の人たちが考える「勝利」とは違います。この地上では、

「自分が今まで真面目に生きてきたし、主のために、こんなに苦労して、あんなことや、こんな

こともやってきました」という行いを持って行くことが、主に喜ばれることのように考えがち

ですが、そうではありません。むしろ、主が喜ばれることは、私たちがどこまでも絶対主に

対して、「私は本当に醜い人間で、何の良きものもありません。私は、ただイエス様のおかげで

救われた者に過ぎません」という心を持って信じ続けて来た者を、「勝利を得る者」として見て

下さるのです。なぜなら、
絶対主は、私たち人間が自分自身の罪さえ解決することのできない、

どうしようもない者だからこそ、イエス様を送って下さったから
です。だから、その自分の

無力さ、罪深さをそのまま認め、絶対主が与えて下さったイエス様の救いを最後まで信じ続けて

来た者を、「勝利を得る者」として、聖なる都エルサレムに迎え入れて下さるのです。


(結) こうして、私たちが「勝利を得る者」となるために、まず必要なことは、自分自身の

罪深さを徹底して、心底知るべきです。私たちは、「
心の奥底に、一番醜い、人には知られたく

ない罪」を持っています。しかし、普段はその罪について考えようとしませんし、その部分を

見ようともしません。それを見ると、自分自身がものすごく惨めになるからです。
ですから、

なるべく義人ぶって見栄を張り、いかにも正しい歩みをしているかのように振る舞おうとして

います。ところが、その心の奥底に隠し持っている罪を、私たちは自覚しなければなりません。

それは、ダビデのように、「私の背きの罪は、いつも私の目の前にあります。」と自覚して

いけば、決して傲慢になることはないからです。また、「自分は罪人じゃない」なんて、開き直る

ことも出来なくなります。すると、「私にとって、生きるはキリストです」と、イエス様にあって

生きていく者となるでしょう。この心を持って生涯を全うすれば、「勝利を得る者」として天に

迎え入れられるのです。どうか、
御国に入れて頂くだけでなく、「勝利を得る者」として、聖なる

都エルサレムに入れて頂く者
となろうではありませんか。

 


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