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2016年2月28日



絶対主の判断に、無条件に従っていく

第Ⅱコリント7:5~13



(起)今朝は、「絶対主の目から物事を見、絶対主がなされる善悪の判断に、無条件に従って

いく」ということについて、学んでいきたいと思います。


(承) さて、パウロさんは、コリントの教会の人たちに対して、二度手紙を書き送っています。

第一の手紙では、「異邦人の習慣の中にあって、今まであなた方が行ってきた行いは間違って

いる」と断罪しました。そのあとの、コリントの教会の人たちの反応はどうであったかというと、

初めのうちは、パウロさんの言葉に対して素直になれず、「誰の推薦によって、そのように文句

を言い、私たちを裁くのか」という反発心を持っていました。しかし、今日お読みした

第Ⅱコリント7:9を見ると、彼らは「悲しんで悔い改めに導かれた」(9節)とあります。

その「悲しみ」というのは、自分に対して、あるいは人に対して悲しんだのではなく、「絶対主の

みこころに添って悲しんだのです。」なぜなら、「自分たちが異邦人の間では当然だと思って

やってきたことが、絶対主の前では死に至る罪だった」ということが分かり、「絶対主の目から

見た時に、弁解の余地はない」ということが分かったからです。彼らは、指摘された罪を、

自分たちの目から見たのではなく、絶対主の目から見て、自分たちの罪をはっきり悟ったのです。


(転) では、私たちの場合はどうでしょうか。罪を指摘されたとき、「人と比べて、自分は

罪人かどうか。」あるいは、「自分が現在置かれている社会の中で、それが罪かどうか」という

見方をしているのではないでしょうか。だから、怒られると、「子どもの頃から、自分はこう

いう性格だから仕方がない」とか、「他の人だってやっているのに、なんで自分だけが怒られる

の」という、むくれた思いが出てくるのです。すると、たとえ罪を断罪されても、罪の自覚は

薄く、コリントの教会の人たちのような悔い改めには至りません。

そこで、私たちにとって大事なことは何かと言いますと、絶対主の目から見て、それが正しいか、

間違っているかを考えることです。
私たちクリスチャンは、最終的には、絶対主にあって生きて

行く、天の御国に入るのです。ですから、私たちの判断と行いが天の御国で通用するか、

そうでないかはとても重要なことです。すなわち、自分中心な見方や、この世の常識的なものの

見方が、天の御国の考え方だと思ってはなりません。私たちは、この命を創られた絶対主の

お考えに合わせていかなければならないのです。ですから、いろいろな物事に対する善悪の判断

も、絶対主にすべてお任せするべきです。現代の社会では、善悪の判断を自分ですることが

当たり前となっていますが、それは間違っています。本来、「善悪の判断」というものは、

絶対主だけが持っておられる権利でした。しかし、アダムとエバが絶対主からの戒めを破り、

「善悪を知る木の実を食べた」ことによって、人間が善悪の判断を自分でするようになった

のです。それこそが、人間の罪のもとです。私たちが罪を指摘されたときに素直になれないのは、

善悪の判断を自分がしているからです。「『自分が悪かった』ということを、自分で理解し、

納得して、頭で分からないと謝ろうとしない。」それは、「自分の罪を自分で善し悪しの判断を

しているから」であり、自分の都合よく判断する、頑なさが染みついているからです。それは、

絶対主に逆らって手に入れた「善悪の判断」ですから、罪の心がそこに入っており、自分勝手な

判断しか出来ないからです。だから、善悪の判断を正しくできる人間は、この世にはいません。

なぜなら、必ず自分にとっての損得が働くからです。その場では「自分が悪かった」と認めた

としても、心は素直になっていません。だから、弁解したり、反抗的になったり、後でむくれ

たり、すねたりするのです。善悪の判断は、絶対主がするもので、絶対主が「悪だ」と言われ

たら悪であり、「お前は罪人だ」と言われたら、罪人なのです。もし私たちがこのことを悟り、

自分の身勝手な善悪の判断から離れ、「絶対主の見方による判断」として受け留めて行くならば、

素直に自分の罪を認めていくことができるようになります。
するとその瞬間に、怒られている

心のストレスはなくなり、平安がきます。それは、絶対主が絶対主の側から見て、叱っておら

れる事柄に気づき、それを悟った場合、「絶対主の心を知って謝るのですから、絶対主はそれで

良し」と言って下さるからです。
絶対主の御心の中にあって「自分が間違っていた」と認めた

ときには、私たちには、叱られても一つも害を受けることはありません。むしろ平安が支配する

のです。(9節)


(結) ですから、私たちはこの意識に、はっきりと立ちましょう。そして、いつも自分の

目から物事を見るのではなく、絶対主の目から物事を見て、考えていくのです。また、怒られる

言葉も聞いていくのです。
私たちは、教会にいるときは当然、絶対主の目から物事を見ていく心

を持つでしょう。しかし、教会から一歩離れると、この世の考え方の中で物事を見、この世の

常識で善悪を判断しようとします。それは、間違っています
。私たちにとって大切なことは、

教会にいるときだけでなく、社会に出て行っても、絶対主の目から物事を見て行くことです。

そして、絶対主がなされる善悪の判断に、無条件に従っていこうではありませんか。

 


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