教 会 案 内 牧 師 紹 介 定 期 集 会 特 別 集 会
定 期 メ ッセージ  シ ョ ー ト メッセージ 福 音 の 話
行   事 教 会 新 聞 掲 示 板 リ ン ク 事 務 室



2016年11月6日



心の置き所を「自分の感情」から
「絶対主から見た理屈」に変える


使徒の働き10:34~43


(起)「私たちの心の置き所を、『自分の感情』から、『絶対主の側から見た理屈』に変える」

ということについて、学んで行きたいと思います。


(承) さて、ここに記されている、ペテロが見た夢は、彼にとっては非常にショックな

夢でした。それは、「汚れた動物をほふって食べなさい」と言われる夢であったからです。

旧約聖書の律法では、汚れた動物とそうでない動物がはっきりと区別されており、「汚れた物を

決して食べてはならない」と決められています。ペテロはその律法を守っていましたので、

この夢は、彼にとっては悪魔的な夢だったと思います。そんな中で、ペテロが、思い巡らせて

いると、そこに、異邦人であるコルネリオの所から使いが送られ、ペテロを訪ねて来たのです。

その時、御霊が「何も疑わないで、彼らと一緒に出掛けて行きなさい」と言われたので、

ペテロは次の日、彼らと一緒にコルネリオの家に行くことにしました。そして、コルネリオの

家につき、彼の話を聞いているうちに、ペテロは、自分が見た夢と、それに関連して起った

出来事の繋がりが見えてきました。彼は、「これで私ははっきり分りました。絶対主は、

依怙贔屓
(えこひいき)
なさるお方ではなく、どんな国民でも、絶対主を恐れかしこみ、義を行う人は、

絶対主に受け入れられる」と悟ったのです。しかし、このことを理解する前は、自分が見た夢の

ことも、異邦人であるコルネリオの家に行くことも、
ペテロの感情としては、許せないこと

であり、受け入れたくないことでした。ところが、彼はそのような自分の感情を一旦横に

置いて、起こった事柄を冷静に判断し、順を追って見て行ったのです。
すると、「こういう

理屈か」ということが分かってきて、絶対主が異邦人の伝道の門を開かれたこと、そして、

その働きを始められたことが分かり、素直に従うことが出来たのです。ですから、この記事を

通して、
私たちが学ぶべきことは、物事を判断する時、「自分の感情に留まっていては

いけない」という事と、「絶対主の側から見た理屈と導きに基づいて判断して行くべきだ」と

いうことです。


(転) では、私たちは、普段はどのようにしているのでしょうか。実は、ほとんどが、

自分の感情に基づいて物事を判断してしまっています。私たちの感情というものは、

常に自分中心であり、自分を守って自分の義を通そうとします。それは、特に怒られた時に、

この感情が表れます。そして、怒られている時に自分の感情が働くと、私たちは自分の誤りを

認めることができなくなります。それが幾ら、「間違っている」と指摘されても、心が付いて

いかず、心の底から「ごめんなさい」と言えないのです。それは、自分の見方による感情的な

思いが先立ち、相手の言っていることが、理屈で分かっても、心が付いていかないのです。

そうなると、いつまでたっても自分の罪が分からず、絶対主の前に、「自分は罪人で、

何も弁解できない」という現実から離れてしまうのです。このように感情を横に置いて聞く

ことの出来ない人は、いつまで経っても絶対主に素直に従って行くことはできません。

では、私たちはこの感情をどのように治めて行けば良いのでしょうか。それは、怒られている

時、「そんなつもりじゃなかった」とか、「そこまで言わなくてもいいのに」という、感情的な

自分の言い分を横に置くのです。そして、怒っている人の側に立って聞こうと、自分の意志を

働かせるのです。そうすれば、相手が言っていることの理屈と意味が理解できるようになります

から、「自分のどこが悪かったのか」、「なぜ自分は怒られているのか」が、見えてきます。

それが見えてきたら、素直に「ごめんなさい」と言えば、主の赦しを体験できます。そして、

心を変えて行くことができるのです。ですから、私たちは、いつも自分の感情を中心にして

物事を考えてはいけません。怒られるということは、怒られるだけの理由があるのです。

だから、自分をかばって、自分の感情で自分を誤魔化してはなりません。その感情を一旦横に

置いて、相手が言っていることをそのまま聞くのです。それなら、私たちにもできるはずです。

今までは、自分の感情が自分の心だと思い込み、「自分にはこの思いがあるからしかたがない」

と言って、自分を甘やかしてきただけです。私たちが絶対主に従って行くためには、まず、

子供の頃から当たり前にしてきた、その勘違いの感情を改めていかなければなりません


(結) 絶対主は、私たちに対して、「どんな場合も、感情を働かせてはいけない」と言われて

いるのではありません。この感情も主から与えられたものです。だから、正しい感情は、

何の差し障りもありません。しかし、自分が責められた時に、反発を抱いて感情に留まっては、

主に従えなくなるのです。だから、いざという時に、自分の感情を横に置いて、絶対主の側から

見た理屈で物事を理解して行こうとする心に立っていくならば、それで十分だと言われているの

です。どうか、
私たちの心の置き所を、「自分の感情」から、「絶対主の側から見た理屈」に

変えて行きましょう。
そして、絶対主の御心のままに従って行く、素直な歩みを始め出そうでは

ありませんか。 
 

 

 


 *メニュー
      * 教 会 案 内
      * 牧 師 紹 介
      * 定 期 集 会
      * 特 別 集 会
      * 定期メッセージ
      * ショートメッセージ
      * 福 音 の 話
      * 行       事
      * 教 会 新 聞
      * 掲  示  板
      * リ  ン  ク
      * 事  務  室