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2016年1月24日



絶対主が私の主人です

ルカの福音書15:11~24




(起)「御国に繋がる秘訣は、『絶対主が私の主人です』という心を表し、その生き方を貫いて

いくことである」ということを、学んでいきたいと思います。


(承) さて、この放蕩息子の記事を読むと、「この息子は、裕福な家庭に生まれ、恵まれた父

のもとで育った」ようです。彼は豊かな家の子どもとして、「親の持っているものは全部自分の

ものだ」という考えを持っていました。だから、「自分が主人公のつもりで生きていた」のです。

そして、ある時彼は「あなたの財産のうちで私が頂く分を下さい」と、当たり前のように父に

求めました。彼はそれを受け取ると、すぐに遠い地に旅立って行き、あっという間にその財産を

使い果たしてしまいました。しかも、その時期にはその地方にはひどい飢饉が起こり、彼は

生きていく術を完全に失ってしまったのです。そこで、ふと自分の家に心を向けた時、

「家には食べるものが一杯あって、いつも与えられていた。ああ家に帰りたい」と思ったのです。

しかし、親から受けた恩恵を湯水のように使い、散々親に逆らって生きてきた者が、今更

息子の顔をして帰るわけには行きません。だから彼は、「私は天に対しても、あなたに対し

ても、罪を犯しました。もう、あなたの息子と呼ばれる資格はありません。雇人の一人にして

下さい」と言おうと心に決めて、家に戻ったのです。そして、父親にそのように言いました。

すると、父親は彼を受け入れ、喜んで祝宴を開いたのです。


(転) ではここで、父親がどうして彼を受け入れたのか、また、そのポイントはどこにあった

のか考えていきたいと思います。それは、「彼が『雇人の一人にして下さい』という心を

抱いた」からです。この時、彼は初めて、「自分は父の子であっても、この家の主じゃない。

自分は身勝手なことをしたのだから、今更父の息子と呼ばれる資格もない。しもべたちと同様、

雇人として生きて行くべきだ」という思いを持ちました。その彼の心を見て、父親は受け入れた

のです。実は、この放蕩息子の心を、いま私たちも持たなければなりません。なぜなら、私たち

も絶対主の子として創られたにも関わらず自分勝手に生き、罪の中に生きてきました。

だから、イエス様の救いを信じ、絶対主に受け入れられたとしても、罪の中にあったのですから、

自分は息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人として受け入れて下さいと言うべき

です。本来なら信じ受け入れられたその時から、「自分を主人として来た生き方から、絶対主

を主人にする生き方」へと変えて行くべきでした。にもかかわらず、「信じましたから当然の

ように助けて下さい」と言い張る心は、相応しくありません。イエス様を信じるということは、

イエス様を遣わしてくださった絶対主も同時に知ったのですから、その絶対主に対して頭を

下げ、「本当にすみませんでした。イエス様の救いをいただかなければ、私はもう生きて行く

ことの出来ない者でした」と言い、「雇い人の一人にでもしていただければ、感謝です。」

という気持ちを持って、丁度でした。なのに、救いを頂いた者として、未だに傲慢でイエス様

を利用し、絶対主に対して高慢であることは許されません。本来なら、「これからはこの絶対主

に従って行きます。自分が主人ではなく、絶対主が主人です。」と、そこから具体的な歩みを

始めて行くべきです。これが、本来のクリスチャンの姿です。
ところが現実は、多くのクリス

チャンが、信じてもなお、自分を主人にした生き方を続けているのです。すなわち、自分の感情、

自分の気持ちを優先し、自分の願望をこの地上で実現していく生き方です。それは、救われた

自分が主人になり、救ってくださったイエス様と絶対主を利用して行く生き方をしているという

ことです。
その人は、いくら、「主のためにあれをやりました。これをやりました」と言って

も、絶対主と対等に、ただ利用した生き方では、絶対主とは繋がりません。私たちが絶対主と

繋がる道は、自分の考えを砕いて、絶対主の考えに合わせていく道だけです。現実に、私たちの

内には、絶対主の考えを振り切ってでも、自分の考えを優先しようとする、頑なな思いがあり

ます。しかし、それを砕いて行かなければ、主の日に泣いて歯ぎしりすることになります。

私たちは放蕩息子のように遜らなければ、絶対主と繋がり、御国に繋がる事は出来ません。

なぜなら、遜る人は、自分ではなく絶対主を主人にし、「たとえ自分の気持ちや自分の考えが

否定されたとしても、主に従っていく」と心に決めている人だからです。その人は、最後の

最後まで、絶対主のしもべとして、遜って従って行く道を通って行くことでしょう。すなわち、

たとえ自分が苦しい目にあっても、逃げたくなっても、絶対主に心を向け、どこまでも耐えて

いくということです。そこまでした人間を、絶対主は絶対に見捨てられません。必ず御国に

入れてくださいます。


(結) ですから、私たちは今、これまで自分を主人にしてきたことを悔い改め、自分自身を

砕きましょう。今砕いておかなければ、患難時代に入った時に、なお自分を主人にし、自分の

気持ちを優先して、「今、自分が苦しいから逃げる」という選択をしてしまう可能性がある

からです。自分の気持ちや感情は、死ぬまで出てくるものです。それは、決してなくなり

ません。しかし、それを砕き続けて行くなら、御国に繋がる道が開かれていきます。

これが秘訣です。放蕩息子も、そこだけをやったのです。自分を主人にし、自分の気持ちを

優先して、イエス様や絶対主を利用する人生は、今日限り、おさらばしましょう。そして、

「絶対主が私の主人です」という心を表し、その生き方を貫いていこうではありませんか。 

 


 


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