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2016年1月10日


絶対主の言葉に聞く耳を持つ

ルカの福音書8:9~15




(起)種まきの譬えを通して、「『生まれながらに罪人である』という事実を認め、絶対主と

繋がった生き方は、絶対主の言葉に聞く耳を持つ」
ということについて、学んでいきたいと

思います。


(承) さて、この種蒔きの譬え話は、天の御国に繋がるかどうかの譬え話で、福音を聞いた

人々や、信じてクリスチャンになった人々が、絶対主に本当に繋がるかどうかについて語られて

います。このたとえ話を通して、イエス様が語りたかったことは、「たとえ福音を聞いて

喜んだとしても、地上に結びついた心では、絶対主と繋がらないので、聞いたことにはなら

ない。」と言われたことです。信じた者は、聞く心を持って天と結びついて行かなければなら

ないのです。そのことを、「道端に落ちた種、岩の上に落ちた種、茨の中に落ちた種、良い地

に落ちた種」に譬えて語られました。

ところが、ルカの福音書では、この譬え話の中で一番のポイントとなる御言葉が省略されて

います。それは、「聞く耳のある者は聞きなさい」(マタイ13:9)という御言葉です。

何故この御言葉が重要なのかというと、「聞く耳のある者」こそが、絶対主と繋がり、天の

御国に繋がるからです。では、その「聞く耳のある者」とはどういう者のことでしょうか。

それは、「罪人としての自覚を持って絶対主の言葉に耳を傾ける人」のことです。「自分は罪人

である」という自覚を持った人は、「偉そうに知ったかぶりをして、人の上に立とうとはし

ません。むしろ罪人なのだから、言われて当然だとへり下りの心を持ちますから、その人は、

絶対主の言葉に耳を傾けて聞こうとします。」すると、その人は絶対主から祝福を受ける

のです。それは、マタイ13:12に記されています。「持っている人は与えられてあり余る

ほど豊かになります」という御言葉の意味は、「聞く耳を持っている人は、与えられてあり

余るほど豊かになる」という意味です。すなわち、自分が罪人であることをきちっと自覚して、

その上で絶対主の考えを自分の考えとして受け止めて、聞く人のことです。「このように歩む

人は、祝福を受ける」ということです。ところが逆に、「自分は罪人である」という自覚が

ない人は、聞く耳を持ちません。なぜなら、罪人である自分自身を棚上げにし、自分の正しさ

を主張して弁解するからです。すると、そういう人は、「持っているものまでも取り上げられて

しまう」のです。すなわち、「永遠の御国まで取り上げられてしまう」ということです。

それが種蒔きの譬話で語られているのです。


(転) では、私たちはどちらの側の人間でしょうか。私たちは、頭では、「自分は罪人である」

ということを理解していることでしょう。
ところが問題は、「日々の生活の中で、罪を自覚した

物言い
をしているかどうか、罪を自覚した上で行動をとっているかどうか」ということです。

となると、本当の意味で罪の自覚を持っている人はほとんどいません。それは、ほとんどの

クリスチャンは、いつも地上に心が向けられており、地上のことに心が捕われているからです。

そういう人は、「世のことばかり気を配り、試練が来ると信仰から離れ、世の心遣いや、お金の

ことや、快楽に気がとられ、信じる実を結ばない人」になるからです。だから、クリスチャン

であっても、世に受け入れられることばかり考え、絶対主を信じることを恐れ、世で嫌われ

ない人間になろうとする人は、自分は罪人であることを棚上げしてしまいます。また、自分を

良く見せようと自分の罪を自覚せず、弁解ばかりするのです。しかし、いくらこの地上で自分

の立場を良くしたとしても、それは天には一つも繋がりません。私たちが天に繋がる道は、

「絶対主の言葉を聞く心を持っていること」です。すなわち、「自分は罪人である」という

自覚を持っている人は、自分の考えに立つより、絶対主の考えに立とうとします。私たちは

生まれながらに罪人ですから、指摘されて当然、失敗して、怒られて当然です。その自覚を

いつも持っているならば、人から非難されることに対して素直になり、恐れがなくなります。

たとえ怒られたとしても、「ダメな人間だからこそ、主の助けが必要なんです」と心を変え、

反発の心から離れます。そして、主にへりくだって、「どうか助けて下さい。何とか、ここ

からやらせてください」と言って、絶対主に本気で叫び求めて、聞こうとします。

これが、罪を棚上げしていない人間の心であり、絶対主と繋がって生きている者の心です。

(結) 私たちにとって一番大切なことは、絶対主と繋がった生き方を永遠に続けていくこと

です。そのために必要なことは、「自分は生まれながらに原罪を持った罪人である」という

事実を認め、その自覚にいつも立っていることです。もし、その自覚を持っていくならば、

信仰の故にたとえ人から非難されても、また信仰のゆえに命を奪われるようなことがあっても、

恐れません。どうか、「自分の正しさを何とか保とう」という考えを捨て、「生まれながらに

罪人である」という事実を認めた上で、絶対主と繋がった生き方をしていこうではありま

せんか。 


 


 


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