自分の罪を誤魔化し、嘘を付くことが当り前になっている人は、たとえ「イエス様を
信じています」と言っても、イエス様との関わりはありません。それは、自分が盗んでおい
て、人が見ていないと思ったら「自分は盗んでいない」と平気で言い切ってしまう人だから
です。本来なら、罪の張本人ですから、その罪を悔いて苦しんで謝るのは当然です。
そのことによって人から白い目で見られ、飽き飽きされても仕方がありません。なのに、
「盗んでいない」と言い切ることによって、自分の罪の咎めを忘れ去ろうとするなら、
「自分は罪人である」ことを否定し、心に入れないようにしている人です。このような人の
ために、イエス様は死んで罪の贖いをしたのではありません。イエス様は、罪人が罪の呵責
に耐えかねて、悩み苦しみ、どうにもならない人間の姿を見て、人の罪の償いのために
ご自分の命を差し出して下さったのです。ですから、「自分の罪も認めず絶対主に背を
向ける者に、どうしてわたしが必要でしょうか?」とイエス様は言われます。「わたしは、
そんな者の為に命を差し出したのではありません」と。ですから、自分の罪にいろいろな
理由を付けて、自分は正しいと思っている人に、救いはいらないのです。そういう人には、
「生ける絶対主の御手のうちに落ちるのは、恐ろしいことです」(ヘブル10:31)という
宣言が、口を開けて待っているだけです。逆に言うと、罪人が罪人として100%自分の罪
の責めを受けて苦しんでいる人に、イエス様の贖いによる救いが、その人の内に実現するの
です。イエス様は、「罪人が『悔いし砕かれた心』を持っているなら、それで十分です」と
仰って下さいました。こんなお方が、「信じた者の外側を見られるのではなく、心の内側を
見て下さる」ということは、なんとありがたいことでしょうか。逆に、「自分は正しい」と
思っている人にとって、心の内側を見られるのは恐ろしいことです。私たちは、自分の罪に
正直になるだけです。イエス様の救いは、罪人のためにあるのですから。
そして、この罪人がイエス様を信じて行く一本道こそ、人生の生きがいとなるのです。何と
幸いでしょうか。自分のことを卑下して控え目に表現するなら、イエス様は「どちらなん
ですか」とイラッとされます。イエス様は、私たちの意志をどこまでも尊重して「私の
生きがいは、イエス様です。私をお使い下さい」と言うなら、「よくぞ言いました」と言って
用いて下さいます。このイエス様に、生涯献身の心をもって仕えて行きましょう。
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