聖書の主張は一方的。「人よ。言い逆うあなたは何者ですか?」
「あなた方は、物を逆さに考えている。・・・陶器が陶器師に『彼はわからずやだ』と
言えようか」(イザヤ29:16)人間は、元来絶対主によって創られた者であり、100%
罪人である以上、自分の主張を絶対主に通すことは許されません。しかも、絶対主が怒りを
示して、その滅ぼされるべき怒りの器を豊かな寛容をもって忍耐して下さり、御子イエスの
贖いのゆえに、罪の中から救い出して下さいました。それなのに、私たちは今なお、自分の
主張を自分の権利のように思って絶対主に申し述べています。聖書は奴隷について言及する
とき、「横暴な主人に対しても従いなさい。不当な苦しみを受けながらも、絶対主の前に
悲しみをこらえるなら喜ばれることです」(第Tペテロ2:18、19)と語っており、
決して奴隷解放を唱えていません。もし「奴隷の状態で召されたのなら、それを気にしては
いけません」(第Tコリント7:21)とあるように、人間世界の中で奴隷という理不尽な
制度に対して、絶対主は、「地上の主人に従いなさい。・・・上辺の仕え方ではなく主を恐れ
かしこみ真心から従いなさい」(コロサイ2:22)と言われ、奴隷が奴隷制度をどんなに
嘆いても絶対主は、「従いなさい」で終りです。
又、女性は、男から取られたのであり、女は男から離れてあるのではありません。「女は
男のために造られたのです」(第Tコリント11:8)女の造られた目的は、男の助け手と
なるためです。ですから、女が男の上に権を執ることは許されません。「女が教えたり、男を
支配したりすることを許しません」(第Tテモテ2:12)とあります。
このような主張は、聖書を通して絶対主が一方的に私たちに語っておられるものです。
ですから、私たちがそれに異議を唱えたり、自分の思いを分ってもらいたいと主張しても無駄
です。それは、ダビデの詩篇51篇の16節で分るように、どんなに絶対主にお願いし、
祈っても、駄目なものは駄目なのです。最後は、私たちが絶対主の前にへり下り、「絶対主へ
のいけにえは、砕かれた魂、砕かれた心」(詩51:17)で従うのです。私たちは、「まず
絶対主の国と絶対主の義を求めていく者です。そして、「人よ。絶対主に言い逆うあなたは、
いったい何者ですか」 (ロマ9:20)とありますから、事は人間の思いにはよらない
ということです。ですから、私たちは一方的に絶対主の心を自分の心としていくべきです。
自分の考えに立つ人は、自分が正しいと思っているのです。そういう人は自分の都合のいい
教会を渡り歩き、自分を認めてもらう所へ行くのです。その行き着く所は、サタンの滅びです。
ですから、我を砕き、御言に同意する素直な心を持って従って行きましょう。
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