聖書に、「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来て下さった」
(第Tテモテ1:15)とあります。この福音を聞いた私たちは、罪人を救って下さる
イエス様に感謝して信じました。そして、罪人が救われたのですから「罪を犯さないように
なってイエス様に恩返ししなければ」と思い続けて来ました。ところが、信じてからも全く
変っていない自分を見て、「これではいけない」と思いつつ罪を犯してしまう自分に「やり
切れない思いを抱きつつ」苦しみ続けているのです。しかし、現実は、もともと罪人の私たち
ですから、イエス様の救いに預ったとしても、罪人がどうあがいても義人にはなれません。
そこでこんな私たちに、イエス様は「もともと罪人ですから、仕方ありません。だから、
そういう自分を認めなさい。罪を犯す自分しかないのだという自分を認めることです」と
言われました。そして、「そのへりくだりの心を持って仕えて来て下さい」と言われるのです。
しかし、私たちは「行いが無しでもいいのですか?」と逆質問します。それは、罪人として
弱さだけでは、人から見下されてしまいます。だから救われた者として正しい人間になって
主に仕え、人に認められたいと思うのです。それは、罪を犯さない正しい人間となる事が、
正しい人間だと子供の頃から教えられて来たからです。又、自分勝手な罪人が変えられてこ
その救いだと思って来たからです。しかしながら、「もう、私には罪を犯さないように成る
ことは出来ません」と言った時、イエス様は「それでいいのですよ」と言われるのです。
ここが、人間の意識とイエス様の意識の違うところです。私たちは、行いの伴った正しい
人間になることが救いだと思っていました。しかし、「イエス様は、罪人を救うために来て
下さったのです。」それは、人が行いの伴う正しい人間になれるなら、イエス様は人間の罪の
為に死ぬ必要はなかったからです。だから、まず「100%の罪人である」ということを
心から認め、「見下されても当然の者だ」と知って、自分は頑張っても義人となる力はゼロ
だと認めることです。そして、ゼロだからこそ、救い主であるイエス様に頼って、一つでも
二つでも主に喜ばれる事をして行こうとする砕かれた心こそ、主に受け入れられるのです。
しかし、自分がゼロだと思わず、尚自分の力で何とかしなければいけないという思いを僅か
でも持っているなら、「罪人が救われる」ことが分っていないことになります。それは、
半分半分の救いと自分の義の中に生きていることになります。イエス様は100%罪人の
人間を救うために来て下さいました。ですから、「心のベースに自分の正しさはゼロである」
と、心底認めるところから救いは始まるのです。これを知り認めることは、本当にむずかしい
ようです。しかし、ここからがスタートです。行いは、100%主に頼ってするとき、主の
御心に近づくのです。
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