(起)「キリストと共に葬られ、キリストと共に甦らされた者の生き方」について学んで
いきたいと思います。
(承) さて、まず11節を見ると、「・・・肉の罪の体を脱ぎ捨てること」とありますが、
これは、簡単に言い換えると、「死ぬ」ということです。そして、12節を見ると、「キリスト
と共に葬られ、キリストと共に甦らされた」とあり、次の13節には、「・・・絶対主は、あなた方
をキリストと共に生かし、私たちの一切の罪を赦して下さったのです」とあります。ですから、
この11~13節は、「私たちは、キリストと共に死んだことによって、肉の罪の体を脱ぎ捨て
ました。そして、キリストと共に甦らされ、生かされました。そのことによって、私たちの一切
の罪は赦されたのです」と、理解することができます。しかし、これはあくまでも、イエス・
キリストを信じた者に与えられた立場について語られていることです。私たちは、確かに
「イエス様の十字架と復活によって、自分自身の罪の贖いが成されたことを信じ、受け取り
ました」が、だからといって、現実的に「肉の罪の体を脱ぎ捨てて、死んで甦る」ということを
経験したわけではありません。となると、一つ問題が起こってきます。それは、実際に「この
地上でイエス・キリストを信じた者の生き方」、すなわち、「キリストと共に死に、キリストと
共に甦らされた者の生き方」をなかなか理解することが出来ないということです。しかし、
私たちが信じた以上は、それを味わっていかなくてはなりません。実際に味わわなければ、
イエス・キリストを信じた者に与えられた立場が、ただの「宙に浮いたもの」となってしまい
ます。
(転) では、私たちはどのようにして、「キリストと共に死に、キリストと共に甦らされた
者の生き方」を味わっていくことができるのでしょうか。まず、「自分たちが死ぬ」ということ
はどういうことか、考えていきたいと思います。それを一口で表現するならば、「私は、聖書に
書いてある通りに行っていくことはできません。もう自分はお手上げで何も出来ません。
私という人間は生まれながらの罪人で、絶対主の御心に適った道を歩んでいくことは出来ない
のです。もう降参です。」ということを、心底告白することです。聖書を読んでいきますと、
「これをしていきなさい。こういう正しい生き方をしていきなさい。そのために今の生き方を
改めていきなさい」と書いてありますから、「私も聖書に書いてある通り、自分を改善し、
生きて行くべきだ」と思いました。しかし、そこで思い知らされたことは、「聖書に書いてある
通りに生きたいのに、それが出来ない。私は絶対主の御心の通りに生きていけない者です」
ということでした。まさに、ロマ書7章でパウロさんが語っていた、「自分のしたい善を
行わないで、かえってしたくない悪を行ってしまう」という自分を見るだけでした。現実には、
罪しかありません。ですから、私たちは、「こうしていくべきだ」と思うことさえも出来ない、
100%罪人の人間だということです。すなわち、「生きていても何も出来ない」という惨めな、
死んだも同然の人間です。ところが、まずこの自分に気づくところから、新しい生き方の
スタートが始まるのです。なぜなら、「死んだも同然の人間だからこそ、全てのことを絶対主、
またイエス様に頼ってお願いし、助けていただいて、歩んでいく」ことがクリスチャンの
スタートだからです。「自分には何も出来ない」と自覚した者は、自分の力に望みを置くのでは
なく、いつも絶対主に聞き、絶対主に助けてもらって生きていく道を選択します。これが、
「キリストと共に死に、キリストと共に甦らされた者の生き方」です。私たちは、ただキリスト
によって生かされているという生き方を、このようにして味わっていくのです。だから、今日お
読みした、イエス・キリストを信じた者に与えられる立場というものは、宙に浮いたものでは
なく、この地上で現実に味わっていくことの出来るものなのです。
(結) 私たちは、肉の力で絶対主の御心に答えることは出来ません。ですから、肉は死んだも
同然のものです。だから、「私は何も出来ないのです」と認める者に、絶対主は「それでいい」
と言われ、「あなたは、キリスト・イエスにあって生きていきなさい」と言ってくださるのです。
これが、絶対主とイエス様が私たちに教えたいと願っておられたことです。もし、これから
私たちが、キリストと共に死んで、キリストと共に生き始めたなら、絶対主は、「お前たちに力
を与えるぞ。そして、わたしのために最後まで働いてくれ」と言って、聖霊の満たしを与えて
くださいます。私たち一人一人に力を与え、賜物を与えて、絶対主の働きのために、私たちを
使ってくださるのです。どうか、この御言葉の中に実際に生きていこうではありませんか。
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