ヤコブの手紙2:14~26
(起)今朝は、ヤコブの手紙から「人が義とされるのは、行いによる」という御言葉から、
「私たちが絶対主の前に持つべき心」について学んでいきたいと思います。
(承)さて、今日お読みしたヤコブの手紙には、「人が義とされるのは、行いによるのであって、
主を信じ仰ぐ心だけによるのではありません」と、書かれています。もし行いがなければ、
人は義とされないということです。ところが、ガラテヤ書2:16には、「人が義とされるのは
律法の行いによるのではなく、ただキリスト・イエスを信じる信仰による・・・。」とあります。
聖書の中に、全く正反対の内容が書かれているのです。そこで、多くの神学者や牧師たちは、救い
の教理をどう解釈するかと言いますと、真理は一つだと考えていますから、この相反する御言葉を
一つの論理で繋ごうとします。そのために、聖書の御言葉をあらゆる所から引用し、その整合性を
表現しようとします。しかし、聖書には、実際に正反対の御言葉はいくらでもありますから、
一つの論理に結びつけようと思っても、それは無理があります。だから、結局は御言葉をこじ
つけるような解釈をすることになってしまうのです。
しかし、私たちの教会は、通読を何十年も経て聖書を精読してきました。そして、その中で教えら
れたことは、聖書には二面性が記されているということです。このことが分った時、「人間の頭で
考えたら矛盾があることでも、絶対主がそのように言っておられる以上は、両方とも正しいこと
として、そのまま受け止めて行かなければならないことだ」ということが見えてきました。
すなわち、教理には、二面性があることをへりくだって受け止めて行くことです。すなわち、
御言葉を「これは正しくて、これは間違いだ」と、私たちが判断することは、間違っています。
私たちは、子どもの頃から、「自分が考えたことは正しい」と思い込んで、それを通そうと思って
発言してきました。しかし、罪人の私たちに、「これは正しい」と断言できるものは一つもあり
ません。なぜなら、罪人が考えた論理は、絶対ではないからです。しかし、絶対主が仰ったこと
であるなら、絶対に正しいのです。
(転) では、その絶対主が私たちに語っておられる真理とは、何でしょうか。それは、「人間は
100%罪人だ」ということです。だから「自分にも、10%は正しい心があります」と思って
いる者のために、絶対主はイエス様を遣わされたのではありません。10%でも人間の正しさが
あるなら、その正しさで自分を変えて行けばよかったのです。しかし、聖書には「義人は一人も
いない」とあり、100%罪人の私たちは、自分ではどうにもならなかったが故に、絶対主は、
罪の刑罰を受けて地獄に行くしかない罪人のために、イエス様を送って下さったのです。
だから、100%罪人の私たちは、イエス様にあってのみ生きることができます。それゆえ、人間
の中に正しさは一つもなく、自分という者の正義感を出すことさえ出来ません。実は、ここに救い
の原点があるのです。イエス様の隣で十字架につけられたあの強盗は、この心を持っていました。
確かに、この地上では、散々悪いことばかりしてきたかもしれません。ところが、十字架につけら
れた時、「自分たちは、自分のやった事の報いを受けているのだから、こうなったのは当然だ」と
言って、罪人が罪人の報いは当然だという心を表わしました。そして最後に、「こんな罪人ですが、
あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、私を思い出して下さい」と言ったのです。
彼は、「私を思い出して下さい」と言っただけであって、「私を救って下さい」とは言いません
でした。しかし、イエス様は彼に対して、「あなたは今日、わたしと一緒にパラダイスにいます」と
言って下さったのです。この時、彼の心にあったものは何でしょうか。「自分は100%罪人
だから、裁きを受けて当然です、しかし、こんな罪人がいたことも、心の片隅に覚えて下さい」
という思いだけでした。彼は、その心を持って、罪人が罪人の立場をわきまえたとき、イエス様は、
私はあなたを覚えます。と、心に留めて下さったのです。そして、絶対主も、この「砕かれた
悔いし心」をもった罪人の心を「蔑まない」と仰って下さるのです。聖書の中で、パラダイスに
上げられたことがはっきりと分るのは、この強盗だけでした。
(結) ですから、これで1つ言えることは、私たちは確かにイエス様を信じましたが、罪人が、
100%の罪人だという自覚が大切です。なぜなら、信じた多くのクリスチャンが、自分にもいい
ところがあると思っているからです。しかし、聖書は、「義人は一人もいない」と言っています。
それをいくら、反発しても、絶対主の言葉は正しいのです。ですから、これを認める「砕かれた
悔いし心」だけは最低限持っていなければ、パラダイスに入れていただくことは出来ません。
だから、私たちは、「自分は生まれながらに100%罪人だ」ということをへりくだって認め、
あの強盗のように「自分は罪を犯した者ですから、地上の罪は報いを受けて当然です」という心を
持って丁度です。私たちは、自分自身を見たならば、「罪深い者だ」としか思えないでしょう。
そしてクリスチャンであっても「自分は天に行ける者だ」と、自信を持って言える人は、おそらく
いないと思います。みんな不安があります。しかし、それで丁度です。この悔いし心は、絶対主の
前に正しい姿勢です。しかし、十字架につけられたもう一人の強盗は、イエス様に向かって
「救い主なら俺を救ってみろ」と逆らいました。これを罪人がしたら終りです。どんなに辛くても、
どんなに苦しくても、たとえ自分の祈りの通りにならなくても、絶対主に逆らったら終わりです。
むしろ、こんな罪人にも心を留めて下さったのなら、「こんな者ですが、絶対主の御心である
ならば、何が何でもやらせて下さい」と、義を行う心を持って従って行こうではありませんか。
残りの生涯、イエス様と絶対主のために、精一杯やらせていただきましょう。 |
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