(起)「絶対主からの贈り物は、天の御国、そして聖なる都エルサレムである」ということに
ついて、学んでいきたいと思います。
(承) さて、冒頭の御言葉の中に、「絶対主の御前で、あなた方の心を聖く、非難される
ところのない者へと、強くして下さいますように」という御言葉があります。この「あなた方の
心を聖く、非難されるところのない者」と言われている言葉は、今の自分たちにとって、他人事
のように思われ、私たちにとっては想像出来ない事柄かもしれませんが、現実にそのようになる
のです。実は、同じような御言葉が他にもたくさん書かれています。例えば、エペソ1:4を
見ると、「絶対主は御前に聖く、傷のない者となるように」とあります。また、ピリピ1:10
には、「純真で責められるところのない者となって・・・」とあり、ピリピ2:15にも、
「責められるところのない純真な者となり、・・・傷のない絶対主の子となるためです」と記され
ています。生まれながらに罪人で、現在も罪の中にある私たちが、このような御言葉の通りに
なるなんて、考えられないことですが、このようになるのは、事実です。なんと、ありがたい
ことでしょうか。
(転) では、罪深い私たちが、このように聖くしていただけるのは何故でしょうか。
それは、ただただイエス様の贖いのおかげです。私たちは、「自分たちはどこまでいっても
真っ黒な罪人で、それが現実である」ということを、ずっと思い知らされて来ました。この世
では、悪を犯してしまった時、「もう二度としません。これからは真面目にやっていきます」
という気持ちを表明し、反省しなければ赦されません。しかし、生まれながらの罪人というのは、
いくらそのような反省をしたとしても、心の中の罪の根を取り去ることは出来ませんから、また
同じ過ちを犯してしまいます。だから、罪の世界から抜け出すことが出来ないでいるのです。
私たちはこの現実を持っており、その現実を、絶対主はご存知なのです。ですから、絶対主は
考えてくださいました。「『私は、罪を改めようと思っても改めることが出来ない、どうにも
ならない罪人です』ということを本当に認めた人間には、救いを与えよう」と。その為に御子
イエスに、「地上に行ってこい。おまえが創った人間なのだから、おまえが彼らの罪の責任を
取ってこい」と言われ、イエス様がこの地上に来てくださったのです。イエス様は「人間の罪を
贖うために、十字架にかかって死んでくださり、本来私たちが受けるべき罪の刑罰を、代わりに
受けてくださいました。」そのことの故に、私たちは罪が赦され、永遠の御国に入る者とされた
のです。しかも、命を閉じた後の主の再臨の時に、一瞬のうちに、聖く、非難されるところの
ない御霊の体を頂き、罪の棘が抜かれて、御国に入ることが出来るのです。地上にあって、
どんなに罪深い者であったとしても、イエス様の贖いを信じて受け取った者たちは、この聖なる者
の姿に変えられ、全く傷のない者となって、御国に入れていただくことが出来ます。すなわち、
心にある罪の棘が全部抜かれた状態で、イエス様とお会いすることが出来るということなの
です。なんと素晴らしいことでしょうか。さらに、もっと素晴らしいことは、「私たちには、
聖なる都エルサレムに入れていただける可能性もある」ということです。黙示録を見ると、
イエス様が再び地上に来られる時、すでに天にいる人たちも一緒に降りて来ると書いてあります。
イエス様の再臨は患難時代の最後の時ですから、その時よりも前に、信仰を全うして命を差し
出した者たちは、黙示録では、勝利を得る者として聖なる都を受け継ぐ(黙3:21.21:7)
とあります。ですから、主の再臨の時、復活の体をもって天の軍勢の一員(黙19:14)
として、イエス様と共に降りてくるのです。しかもその人たちには、聖なる都エルサレムに
住むことが出来る者たちです。私たちも、これからやってくる患難時代にあって、その道を
通っていくならば、聖なる都エルサレムに入れていただける可能性があるということです。
これが、絶対主が私たちにくださった贈り物です。
(結) これは、自分の努力でもなんでもなく、全部イエス様のおかげです。イエス様の贖いが
あったからこそ、私たちはこの道に歩を進めることが出来るのです。もしイエス様の贖いがな
ければ、私たちは、ただ悩み苦しんで死んでいくだけでした。そして、その先にあるのは、
自分の犯した罪の報いとして、永遠の裁きがあるだけです。しかし、そんな私たちが、全く
正反対の天の御国に迎えられるのです。しかも、願わくば、聖なる都に入れて頂ける者とさ
れれば、イエス様と共に聖なる都で永遠を過ごせるのです。これが絶対主からの贈り物です。
ですから、私たちのために贖いをしてくださったイエス様と、こんなに素晴らしい贈り物を
送ってくださった父なる絶対主に、「なんとあり難いことでしょうか?」と、頭を下げて、
感謝の心を捧げ、献身の生涯を全うして行こうではありませんか。
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