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2014年8月24日    


私たちが持つべき心の土台



ヨハネ15:18〜25



(起)「私たちが持つべき心の土台」について学んでいきたいと思います。

(承) さて、ヨハネの福音書を読んでいくと、イエス様と地上の人々(祭司長や群衆)の会話が

噛み合っていないことに気が付きます。原因は、考え方の土台が全く違うからです。イエス様は

「この世界は、絶対主の手の中で動いており、自分はこの絶対主である父から遣わされてこの世に

来た」という考えに、はっきりと立っておられ、また、いつもその立場で語っておられたからです。

しかし、この地上の人々は、そのことを理解出来ず、「イエスの内に絶対主なんていない」という

反抗的な思い
の中にありました。ですから、イエス様を理解できず、イエス様に対する対抗心が

出ていたのです。だから、イエス様と人々との会話は噛み合いませんでした。もし、万物を造られ、

すべてのものを支配しておられる絶対主がいると分かったならば、誰も反抗することはできません。

しかしながら、人々は、イエスの内に絶対主を認めようとはせず、知ろうともしませんでした。

そして、絶対主を無視し、いつも自分の側から見ようとし、主に逆らったのです。実に自分勝手な

罪人です。しかし、「そういう者たちをなんとか助けよう。なんとか地獄の裁きから救おう」と、

おいでになったのがイエス様です。そして、イエス様がこの罪人たちのために、命を投げ出して償い

をして下さったが故に、罪人でも天の御国に引き上げていただけるという恵みが存在したのです。


(転) ではその時に、どのような心を持った者が天の御国に入れられるのでしょうか。

それは、「自分は本当に罪人です。もしイエス様の救いがなかったら、自分は地獄で恐ろしい裁きを

受ける者でした」と、罪人が罪人であることを、自らが自覚している砕かれた心を持った者たちです。

イエス様は、そのような者に対して、「わたしはあなたを救うために身代わりとなり、その罪の代価を

払ったのです」と言って下さいます。ですから、罪人が罪人であることを認め、そのことを理解した

者にとっては、この救いは、ものすごくありがたいものですから、「こんな者でも贖いを受けて、

天国に行れて頂ける」と思うと、喜んで信じ、友人にもこの素晴らしい救いのことを伝えたいという

気持ちになります。ところが、その後、「なかなか自分の思い通りに分かってもらえない。

人に伝えたくても、それだけの力がない」という弱い自分にぶつかります。すると、「やっぱり自分は

だめだ」という思いになり、だんだん自分の救いの確信さえ失い、弱気な心に支配されて、主を信じる

心が萎えていきます。しかし、そこで自分の弱さに気づいて、弱いからこそイエス様に頼ってやって

いこうと心を変えていくなら、イエス様のすばらしさが見えて来ます。しかし、弱さに逃げ込んで行けば、

キリストの十字架を無にすることですから、受け入れられません。また、ある人は逆に、この救いの

すばらしさが分かると、生れながらの強気な生き方を始めます。そして、元々生れながらに強気な能力

が備わっている
ため、「あれをしなさい、これをしなさい」と言われると、それにどんどん挑戦して、

結果を残す人もいます。そういう人たちは、「イエス様のためにやりたい」という気持ちの中から、

様々な努力をし、いろいろな苦難を乗り越えて行くでしょう。すると、「自分はやってきた」という

部分に誇りを持ち、その内「自分が罪人である」という土台から離れ、自分の努力に頼った成果を天に

持っていこうとします。しかしながら、いくら生れながらに強気な心があって成果を残しても、

絶対主の前に罪人である遜りを失えば、すべての成果も受け入れられません。すなわち、罪人が罪人

であるへりくだりから離れてしまった誇りは、絶対主の忌み嫌われるものだからです。絶対主の前に、

罪人として遜る心を失えば、いくら成果を残してもとき、その供え物によって受け入れられることは

ありません。

  私たちには、この二つのパターンがありますが、どちらも間違っています。一番正しい道は、

「自分は罪人です。役に立たない僕です。ただ、為すべき事をしたに過ぎません。」という心だけです。

そして、「やるべき事をやらせていただきます」と言って、たとえ壁にぶち当たることがあったとして

も、どこまでも、イエス様に頼って「なにくそ精神」を持って諦めずにやっていくこと
です。できない

自分自身を自覚していながら、イエス様の助けによってなんとかできた時には、誇りはないでしょう。

また、一生懸命やって結果を出せたとしても、元々私たちは罪人なのですから、絶対主の前に堂々と

「これをやりました」と誇れるものは一つもないのです。
と言える人は幸いです。

私たちは、「役に立たないしもべです。なすべき事をしたにすぎません」という心を持っていて、

丁度なのではないでしょうか。


(結) 私たちは、この心を習得しなければなりません。なぜなら、この心こそが、患難時代において

必要な心だからです。この心は、たとえ困難な中に入っても、へりくだって逃げ出さない心に繋がって

いくからです。順風な時は誰でも出来ます。しかし逆境の時に逃げ出さない人こそ、主を信じる本物の

信仰です。この後、私たちは、今日お読みした中に書いてあるように、イエス様を信じているが故に

人々から憎まれ、迫害されていく時代の中に入って行くでしょう。そんな中にあっても、私たちは

逃げずに、信仰を最後まで全うして行かなければなりません。
「人が罪人であることを認めて、それで

丁度だ」という心
です。ここから離れてはいけません。私たちは、「出来た」からといって、誇っては

いけません。もともと持っていた能力もすべて主から与えられたものであり、決して自分の力でやった

わけではないのですから。私たちは、
「役に立たないしもべです。為すべき事をしたにすぎません」と

遜って、イエス様にお仕えしていこうではありませんか。
 



                                      

  
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