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2014年6月1日    


 
主を呼び求める


Tヨハネ4:7〜16

(起)「主を呼び求める」ということについて学んでいきたいと思います。

(承) さて、パウロさんは、「旧約聖書の律法を守ることによって、自分たちは義とされる」

という考え方に立っていました。しかし、実はそうではないということが分かり、「信仰によって義

とされる」という、正反対の理解に心が変えられました。そこで、この章では、それをイスラエル人

たちに伝えようとして、パウロさんが必死に語りかけている内容が示されています。

さて、ここでは、律法を絶対主の義とし、それを長い間一生懸命守ってきたイスラエル人たちに対

して、「そうじゃないのだ。キリストが、すべて信じる者に義を得させるために、律法を終わらせられ

たんだ」(4節)と語っていますが、
果たして、彼らにこの事が伝わるでしょうか。逆にイスラエル

人たちはカチンときて、「私たちは、絶対主の律法をずっと大事に守ってきたのに、キリストという

者が勝手に律法を終わらせたなんて許せるか」と言うのではないでしょうか。実は、私たちも

イスラエル人たちと同じで、「一生懸命やってきたことを否定されたら、ハイ分かりました」と

言えるでしょうか?
 人は皆、自分自身に価値を置きたいという心があり、それを否定されるとカチン

ときてしまいます。それは、「私はあれをやってきた。これをやってきた。」という行いによって

受け入れられると、勘違いしているからです。


(転) では、そう思ってしまう原点はどこにあるのでしょうか。それは、「心底、自分の原罪が

分かっていない」ということが根底にあります。
だから、ちょっと怒られると、「なんでそこまで

言われなきゃいけないんですか?私は、自分自身が罪人であることは分かっています。だからイエス

様を信じたんです。そして、そのイエス様のために一生懸命やっているんです。なのに、なお責め

られる必要があるのですか?」と、反感を持ち、自分自身を少しでも分かってもらおうと、言い訳を

するのです。
そういう人は、本当の意味で原罪が分かっていません。すなわち、「砕かれた悔いし心」

を持っていないということです。
もし、自分自身の霊で、「自分は生まれながらに罪人だ」という

ことが分かったなら、絶対に反発しません。暗くもならないし、弁解も言い訳もしない筈です。

しかしながら、原罪を自分自身の霊で理解するということは、すごく難しいことです。ですから、

それを霊で理解するためには、本当に御霊の助けが必要です。私たちは、イエス様を信じる時、

確かに御霊の助けを受けていました。だから、イエス様を信じることができたのです。御霊の働き

がなかったら、話を聞いて「あぁ、そうか」とは思っても、はっきり「信じる」という気持ちには

至れなかったと思います。でも、「本当に自分も信じたい」という強い願いを持った時、御霊が

私たちの心の中に働かれ、私たちの心の壁を取り除いて、「信じたい」という気持ちを、自分自身

の本心として持たせて下さいます。だから、私たちはイエス様を信じることができたのです。

そして、御霊の働きの他に、もう一つ大事なことは、「私たちの方から叫び求める」ことです。

12節に、「主を呼び求める人に対して、恵みが深くある」とあります。自分の方から、

絶対主に向かって、「私は、自分自身の霊で、原罪が分かっていないんです。だから教えて下さい。

お願いします」と心底叫ぶことです。
私たちには、その二面が必要です。イスラエル人たちも、

御霊の働きがなければ、「律法(行い)じゃない。信仰だ。」とは分かりませんでした。

しかし、もしそこに御霊が語りかけられたら、その心は変えられ、「あ、そうか!」と分かって

くるのです。

(結) 
皆さん、私たちに必要なことは、分かっているようで分かっていない原罪を

「何が何でも、自分の心の霊で、原罪を知りたい。分からせてほしい」という、その強い心を

持って、遜って叫び求めることです。
私たちは、本当に分からないものは、自分の方から絶対主に

叫び求めていく熱心さが必要です。そしてその心を持って、そこに働かれる御霊の働きにお願い

していくのです。それによって、その真理が心で理解できる入口が現れてきます。どうぞこの心に

立って下さい。そして、皆が一致した心で「砕かれた心」をもって主に仕えていきましょう。

私たちは生れながらの、原罪の中にあった罪人ですから、怒られて当然です。いちいち自分のことを

分かってもらおうと弁解する必要ありません。
私たちは、「すいません」と素直に謝れば、それで

いいのです。その素直な心を持った時に初めて、自分の中にある霊の本心(主に仕えていきたい)

が生きてきます。この道に進もうではありませんか。 

                                      

  
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