マタイの福音書27章45~56節
(起) 「自分の肉の負けを認めていく」ということを学んでいきたいと思います。
(承) さて、私たちが読んでいるこの聖書は、「罪人である人間がどうあるべきか」ということ
について、絶対主とイエス様の厳しいお言葉によって、戒めが書かれています。
ですから、聖書を読んでいると、「こうしなければいけない。ああしなければいけない」と律法的
になり、「絶対主やイエス様のお言葉に従って、叱られないようにしていこう」という方向に
向かって行きます。そして、そのようにしていこうと願いながら、二つの方向に分かれて行きます。
一つは、「今までもやろうとしたけど、できなかった。やっぱり自分はできない」と思って、
つい逃げの方向に向かってしまいます。もう一方は、「今までそれなりにやろうとしてきた。
これからも一生懸命やっていこう」と、如何にもその道を歩んでいるが如く、錯覚して自慢します。
しかし、その気持ちがあったとしても、完璧な生き方をしている訳ではありません。人間には癖が
ありますから、改めたつもりでも、また出てきます。すると、その部分を叱られた時、「自分は
一生懸命やっているのに、そこまで言われたらできるわけない」と反発していきます。このように、
逃げたり反発したりするのは、自分の負けを認めたくない我があるからです。一般的な人たちは、
「負けを認めたら終わってしまう」と考え、そのような粋がった生き方をしていくのです。
しかし、それは、絶対主の声に従っているつもりだけで、本当は従ってはいませんから、間違って
います。
(転)では、私たちクリスチャンはどのようにしていくべきでしょうか。
それは、生れながらの自分の罪と、生れながらの自分の負けの姿を認めていくことです。実は、
その負けを認めるという姿が、イエス様の姿に見ることが出来ます。今日お読みした46節を
見ると、「我が父。我が父。どうしてわたしを見捨てられたのですか」と、十字架上で、大声で
叫んでおられるイエス様の姿があります。これは、完璧に負けを認められた姿です。
また、イエス様は祭司長や、ピラトの尋問に対しても、一つも弁明せず、ただじっと黙っておられ
ました。それは、この世の反抗勢力に対して、負けを認められている姿です。また、兵士たちや
通りかかった人々、祭司長達からの嘲りも、向かって行こうとはされませんでした。それは、
100%負けを受け入れられた姿そのものです。この負けは、「初めから人々に捨てられ、恥ず
かしめを受け、十字架に付けられる」ということは分かっていた事です。しかも、この苦しみは
人間の身代わりであることも分かっていたのです。しかし、この負けを受け入れておられた
イエス様が、絶対主から見捨てられたみじめな姿に対して、「どうして、わたしをお見捨てに
なったのですか」と叫ばれ、「ここまでやったのですから、死ななくてもいいんじゃないですか」
という気持ちを持たれたとしても、おかしくはありません。負けは決して受け入れ難いものです
から。しかし、絶対主は許されませんでした。そして、その後もう一度大声で叫ばれ「完了した」
と、息を引き取られました。正に、完全に負けを受け入れられたのです。イエス様がここまでして、
負けを受け入れて下さったが故に、罪人である私たちの贖いが完了したのです。ならば、なぜ
いつまでも私たちが勝っていなければならないのでしょうか。肉にとらわれて勝とうと粋がった
ペテロは、敗北したのです。彼は、「たとい、あなたと一緒に死ななければならないとしても、
あなたを知らないなどとは、決して申しません」と言ったにもかかわらず、自分が負けることを
恐れて、卑怯な態度をとりました。自分の負けを認めない人間は、皆このように粋がります。
しかし、人間は罪人ですから、粋がって結果が出るわけありません。私たちは、ペテロのように
「自分はできる」と思いがちですが、思っても出来ないのが人間だということを、思い知る必要
があります。
(結) だから、私たち人間は、生れながらに罪人だから、遜るのです。そこで、「できる」とか
「できない」とか、そんな偉そうな気持ちを持つ事が、傲慢です。遜って、「自分はこんな弱い者
です」と、自分の負けを認めていくべきです。又、真に負けを認めた人間であるからこそ、
イエス様に頼って、「何が何でも」と頑張っていくのが、私たち人間の砕かれた心です。
イエス様ご自身が、そのことを教えて下さいました。「人間とはこういう者だよ。最後は、負けを
受け入れなきゃいけないよ」と。ですから、私たちは負けを受け入れ、そのための訓練は、今の
うちに、何度も受けていくべきです。その訓練をしておかないと、最後666の前に立った時、
勝とうとしてしまいます。それをすれば、ペテロのように敗北するだけです。それは、絶対に
いけません。私たちは、666の前に出たら、真っ先に負けていいのです。それは、殉教の死
を受け入れることです。これを悟って、生涯この道を歩もうではありませんか。 |
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