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 2014年10月26日    


絶対主の目線で物事を見ていく



使徒の働き4章13~22節


(起) 「絶対主の目線で物事を見ていく」ということについて学んでいきたいと思います。

(承) さて、この使徒行伝を読んでいくと、私たちは大きな慰めを受けると同時に、

「自分達もペテロさんたちと同じような生き方をしたい」という思いが出てきます。

ペテロさんたちは、たとえ捕えられても決して福音を語ることをやめず、逆に、「イエス様の

御名のために、辱められるに価する者とされたことを喜びながら」(5:41)、ますます

大胆に福音を語って行きました。そんな彼らは、三度も立て続けに捕えられて入獄させられた

のですから、普通なら、「これ以上辛い目に遭いたくない」という思いを持ってもおかしく

なかったはずです。しかし、彼らは違ったのです。
私は、この彼らの生き方を見て、「それを

習いたい」という心を持ちました。そして、ずっとその心を追い求めてきました。しかしある時、

「これは自分の力ではできない。聖霊の力が必要だ」ということに、気付かされたのです。


それからの私は、聖霊の満たしを本気で求め始め、「満たしを受けるまでは、行くところまで

行くぞ」と決意し、教会全体でその方向に向かっていきました。それは、使徒行伝と同じ

ように、私一人のことではなく、「教会全体に聖霊の満たしが与えられるように」と願った

ことだったからです。そして今、私たちはその聖霊の満たしを受ける目前に来ています。

私たちが受ける聖霊の満たしは、そんじょそこらのものではありません。まさに使徒行伝の

時代と同じ、激しい聖霊の満たしを受けるのです。そして、一日に三千人ほどの人々が加えられ

続けていくような働きを、私たちはこれからさせていただくのです。


(転) では、その聖霊の満たしを受ける前に、どうしても私たちが身につけておかなければ

ならないものについて考えていきます。それは、「空っぽの器」です。

19節を見ると、「人に従うのではなく、絶対主に聞き従います」というペテロさんとヨハネさん

の心が分かります。この心が、今の私たちにも必要です。

では、
「絶対主に聞き従う」とは、具体的にどういうことでしょうか。それは、常に絶対主の側

から物事を考える意識を持っていくことです。そして、その習慣を身につけることです。
今の

私たちは、常に自分の側で考え、自分の側から物事を見て判断しています。子どもの頃から

その生き方をしてきましたので、それが身についているからです。ところが、自分の側から物事

を見て判断する方法は、必ず行き詰まります。例えば叱られた時、「なんで叱られたのか?

これから、自分はどうすればいいのか?」と考え、反省します。しかし、「ここが悪かったから、

これから改めていこう」と思っても、その通り出来たためしがありません。その決意表明しても、

又同じ事をしでかします。そこには平安はありません。しかし、絶対主に聞いて教えられた

場合は、「あっそうか」と霊で理解し、そこにイエス様がいらっしゃいますから、「これからは

イエス様にあってやっていこう」という心を持つなら、前に進んでいくことが出来ます。

ですから、私たちは常に絶対主の側から考え、絶対主の側で判断していくことが大切です。

そして、私たちには、それができる特権が与えられているのです。どういうことかと言いますと、

私たち人間には、霊と心(魂)と肉体があります。しかし、人間は罪を犯したことによって、

罪の心(魂)が霊を覆ってしまい、絶対主の方に心を向けることができなくなってしまったの

です。だから、肉にすぎないものとなりました。
ところが、イエス様が私たちと同じ罪深い肉を

そのまま担い、私たちの代わりに、その罪の償いをして下さったことにより、罪が覆っていた霊

を活かしてくださり、しかも、信じた者の霊の部分に、聖霊さまを宿して下さいました。そして、

罪に汚された心(魂)に御霊によって影響を与えて、絶対主を見上げる心を持たしてくださった

のです。
ですから、聖霊さまは、私たちの霊と一緒に同居しておられ、私たちの霊と魂と体に影響

を与えて下さいます。即ち、心(魂)が悪ばかり傾く罪人に過ぎなかった者を生かしてくださり、

活きる者として下さいました。それ故に、「絶対主との繋がりを持ちたい」というのが私たちの

霊の本音となり、「じゃあ絶対主の側から見ていこう」という方向に、自分自身の心(魂)を

使うようになったのです。

このように、私たちは聖霊さまの働きによって、絶対主に心を向け、上から物事を見ることが

できるようにされました。
だから、その特権を用いて絶対主の声を聞き、絶対主の考え方、

絶対主の思いを自分の心に入れていくと、霊の喜びと平安が与えられるのです。

(結) そこで、私たちは残された生涯、この特権を活かして生きて行くべきです。叱られた時

にも、絶対主の側で考えるなら、叱られていることが自分のためであることが分かってきます。

この心を持って人の言葉を聞いていけば、懲らしめも、感謝に変わるのです。
私たちは、叱られた

時は特に自分の側から見て聞いてしまいがちです。しかし、自分の側から聞くと、すぐ反発、

反抗の心が出てきて、いくら反省したとしても改めることが出来ません。ならば、もうそれをやめ、

上から物事を見ていきましょう。
そうすれば、「これでいいんだ。そして、イエス様にお願いして

助けていただいて、やっていこう」と、遜って受け止めていくことができるのです。

これが、絶対主の目線で見ていくクリスチャンの生き方です。これが、空っぽの器の極意です。

この心を持って、主にお仕えしていこうではありませんか。
                                                         


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