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 2014年1月5日 





『砕かれた心の実践』





ルカ62738




(起)砕かれた心の実践のための心構え」について学んでいきたいと思います。

(承) さて、昨年1年間を振り返ってみると、私たちの教会では殉教者たちの声を聞くこと

が始まり、いろいろ事を学ばせてもらいました。その中でも、特に殉教者の方々が共通して

持っておられた心は、「自分たちは『混ぜものの福音』を信じていました」と告白して

おられたことです。彼らはマリヤ崇拝をしていましたので、その事を悔いて、その場所に

留まられたのです。
私たちは、そのような方々の所に行き、イエス様の懐に帰ってもらう

ための働きをさせて頂きました。この働きは、そんなに難しい事ではありませんでした。

何故かと言いますと、彼らは元々、イエス様のために生きて命を懸けて行った人たちです。

ですから、イエス様を第一にしようとする「砕かれた心」を、一人一人の方々が、

その心根の中に持っておられたからです。ですから、そこを土台にしてお話しすれば、

彼らの心は開かれます。そして、牧師の心と彼らの心は、すぐに一致するのです。

(転) では、今現在の私たちはどうでしょうか。

私たちは、「悔いし砕かれた心」を持つために20年間、御言葉を学び、また、

あれだけの事を経験させて頂いたにも関わらず、なお心を砕くことが出来ません。

その原因は、私たちも「混ぜ物の福音」を持っていたからです。その混ぜ物の福音とは、

ヒューマニズムです。
日本の教育は、戦後、がらっと変わりました。戦争以前は、

親の教育も国の教育も、完璧に、「従うこと」が教育の中心でした。しかし戦後、

日本は自信を失い、
アメリカの教育を取り入れ始めたのです。それが、自由主義、

個人主義です。
戦後に生まれた私たちは、生まれながらにして、個人主義、自分中心主義

の考え方の中で教育を受け、自分を主人とする生き方をしていくように、育てられてきました。


ですから、その中で育てられた私たちは、いま無条件でイエス様に従っていくということに

対して、心がついていかないのです。
ただ頭で理解しているだけで、心の中で「仕えていく」

「従っていく」という気持ちに、抵抗があるからです。
しかし、私たちはこれからの時代に

おいて、徹底的にその中に歩まなくてはなりません。9:24に、「自分の命を救おうと思う

者は、それを失う」とあります。私たちの意識の中には、「自分の命は自分のものだ。」

という心がありますが、そうすると、イエス様の言われた、「自分を徹底的に否定して、

日々自分の十字架を負って、私に従ってきなさい」(9:23)と言われた生き方は

できなくなります。となると、行く先は裁きしかありません。しかし、元々私たちは

生まれながらに罪人で、地獄に行く者です。そんな私たちを救うために、イエス様は

十字架に架かって私たちの罪の贖いをしてくださり、そればかりでなく、地獄に行く者を

ハデスにまで行って引き出し、救い出して下さったのです。そこまでして下さらなければ、

私たちは救われない者なのです。そのことを考えたら、「自分の命は捨てたくない」とか、

「自分の立場やメンツを譲れない」なんて主張するのはおかしいのではないでしょうか。

私たちはそこから救い出されたのですから、「私のことは、もうどうでもいいのです。

私はイエス様に従っていきます」という心にならなくてはいけません。その心を持って

行ったのが、マグダラのマリヤです。彼女は姦淫の現場で捕えられ、みんなの目の前で

罪がさらけ出され、何一つ「自分は悪くない」とは言えない状況の中に置かれました。

しかし、その時イエス様は、「わたしも、あなたを罪にしない」と、その裁きからマリヤ

を引き上げて下さったのです。
その後のマグダラのマリヤは、もうイエス様しかあり

ませんでした。
地獄の裁きから引き上げて下さったイエス様に望みを置き、「元々恥だらけ

の人間ですから、地獄から引き上げて下さったイエス様のためならば、喜んで恥を受けます」

と、イエス様だけに従っていく心を持ちました。
私たちも、この心をイエス様の前に表して

いくべきです。彼女は、確かに姦淫の罪を犯した罪深い女です。しかし、イエス様に一途に

心を向けた彼女の心は、気高いのです。気高いとは、上品という意味です。本物の上品な心は、

悔いし砕かれた心です。彼女は、どれだけ人前で誤解を受けようが、「イエス様のためならば」

と言って生涯を送って行ったのです。
では、私たちは、マグダラのマリヤのような罪人では

ないと言えるのでしょうか?


(結) 私たち日本人の心の中には、滅私奉公という精神があります。

この心は、イエス様の前に大切な精神です。昔の日本のキリシタンの人々には、この心が

ありました。しかし、いつしか「個人主義、人間中心主義」という、自分さえ良ければいい

という
「混ぜものアメリカナイズされた信仰」が入って来てしまいました。生れた時から、

そういう教育を受け、それが心の中に根付いてしまっているのです。それは、今改めていかな

ければ成りません。
私たちは、キリシタンの信仰によって、このことを知ったのですから、

自分たちの考えが100%間違っていることを、よくよく心に入れるべきです。即ち、自分を守り、

自分を大事にして、どうして「砕かれた心の実践」が出来るでしょうか。それを捨てて初めて

出来るのです。
これからは、キリストのためには、あえて汚名を受けることも甘んじて行く

べきです。
私たちは、イエス様に救われた罪人に過ぎません。ですから、恥を受けていくのは

当然です。それが本当に心の中に入っていなければ、自分中心な「混ぜ物の信仰」になります。

どうか、本物の綺麗事の信仰に立って、主に従っていきましょう。 





                                      

  
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