むく
人は、自分が否定されたり、頭ごなしで怒られ、高圧的に指摘をされると、すぐ剥れ、
心を閉じます。そして、一端心が閉じられると自分で心を開いて、聞こうとしません。
これは、罪人が罪人であることを認めることを拒否することで、砕かれた心を持って
いないことの証しです。こうして人が心を閉じると、頭で考えた思いしか出て来ません。
「なぜ怒られるの! どうしたらいいの! どうすれば受け入れられるの!」と自分を
守ることしか考えません。主は、罪人が怒られるのは当り前と考えておられます。
しかし、生まれながらの罪人が、罪人の贖いをして下さったイエス様に対し、罪を
認めない人間は、自分がイエス様の上に立っていることに気づいていません。
主は、高慢な人間を絶対赦されません。又そのようなクリスチャンを主の御用に用いる
こともなさいません。ただ退けられ、自分の罪の報いを、自分で受ける者となる
だけです。ですから、イエス様と絶対主に通じる心は、へり下って心を開き、罪人
である自分を認める砕かれた心しかありません。この心を持っていなければ、
患難時代では、もう白か黒の裁きしかありません。ですから、今の時に、罪人はいつも、
心を開いて罪の指摘を認めていく砕かれた心を身に付けていきましょう。
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