主は言われました。「誰でも、わたしについて来たいと思うなら、自分を徹底的に
否定し、自分の十字架を 負って、わたしに従って来なさい。」この十字架を負うとは、
どういうことでしょうか。十字架を負うとは、砕かれた心に伴う行動です。
例えば、アブラハムはイサクを献げました。ヤコブはベニヤミンを献げました。
これは、自分を愛する「我」が働くと、絶対できない決断です。しかし、自分の十字架
を負う覚悟をして、自分の「我を砕く」決心をしたとき、行動が起ります。
「主の御心の通りにしよう」と。これが砕かれた心に伴う行動です。
私たちには、必ずこうした主の語りかけがあります。しかし、多くの場合、損得の
感情が働いて無視します。自分のメンツやプライドが働くと、特にむすかしくなります。
たとえ主の語りかけがあっても無視していくクリスチャンが 多いのです。このような
人々を主は用いることはできません。もし、主に用いられたいと願うのなら、自分を
徹底的に否定して、十字架を負わなければ、主に従うことはできません。主に従う道は、
狭き門です。なぜなら損得の心を持ったままでは、主に従うことができないからです。
損得の心を持ったままで、狭き門の入口を 見たとしても、入ることはできません。
主は、私たちを取り扱われますが、「人の同意」なくして事を行いません。ですから、
この同意の心こそ必要なのです。いくら、砕かれた心が頭で分ってもそれに同意し、
砕かれた心に伴う行動をしなければ、心を表すことはできません。この決断は、信仰の
勇気が必要です。ずるく引き延して行く人は、終わりの時に「できない」と言って泣いて
歯ぎしりするのです。
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