(起) ロマ書8章から「御霊によって歩む」ということを学びたいと思います。
(承)さて、私たちは、自分自身の内側にある肉の性質には、善が住んでいないということ
を学びました。心の中に、創造主に仕えていきたいという思いはあっても、罪の奴隷として罪に
仕えてしまうのです。この苦悩の中から引き上げられる、解放の御言葉と言われているのが
ロマ書8章です。しかし、今まで私は8章を何度も読みましたが、解放の御言葉だとは一度も
思えませんでした。なぜなら、「肉に従って歩まず、御霊に従って歩む人々は、決して罪に
定められることがありません。」とありますが、長年のクリスチャン生活を送っているうちに、
そのように、「御霊に従って歩む」ことができない現実を味わってきたからです。だから、
8章を読むと、逆に悩んでしまいます。また、それ以上に、もっと分からないことがありました。
それは、Uコリント5:17です。私は、この御言葉によってイエスキリストを信じるきっかけと
なりました。しかし、それから苦しみが始まったのです。「キリストにあるなら、その人は、
新たに造られた者です。古い者は、過ぎ去った。見よ、全てが新しくなりました。」とあります。
しかし、自分自身の以前の姿は一つも変わりません。むしろ、罪深い自分が知らされただけです。
私は、この御言葉の意味が分かりませんでした。しかし、今ようやく聖霊さまによって真理が
解き明かされました。それは、「聖霊のバプテスマを通して実現します。」と言われたのです。
そうです。人の力など、何の役にも立ちません。確かに御霊の力こそが、人を強くし、不動の者
とします。
(転) では、そのために必要なものは何でしょうか。「砕かれた悔いし心です。」その心が
なかったら、聖霊のバプテスマを受けたのち、その賜物、力を自分のために使ってしまい、
最悪なことには、御霊を消す方向へ向かってしまうという事です。そういうことをしていくと、
御霊は消えてしまい、逆に教会は、用いられて行かなくなってしまいます。
実は、聖霊のバプテスマを受けたからといって、罪を犯さなくなるわけではありません。
ペテロさんも、自分を守って、パウロさんから、ひどく叱責を受けました。ですから、私たちも、
力を受けたからと言って、思い上がってはけません。むしろへりくだっていくべきです。
そのために、今から、へりくだりの心を学び、私たちは、聖霊に満たされ続けていく必要が
あります。すなわち、御霊によって歩み続けていく必要があるのです。ですから、私たちは、
砕かれた心をもって「聖霊のバプテスマを下さい」と言わなければいけません。ペテロさんは、
3回も「イエス様を知らない」と言ってしまい、惨めな自分自身に対して激しく泣きました。
自分の力では、いくら、「自分の命をかけて、あなたに従っていきます。」と言っても、
従うことができない自分があります。私たちも、自分自身の内側には何もありません。
従っていきたいけれども、従っていくという裏付けさえもありません。獣の刻印を押したく
ないけれども、押さないという裏付けもありません。そういう、どうしようもない惨めな自分
なのです。ですから、「聖霊のバプテスマを下さい」とへりくだって求めるのでしょう。
それを求めないのは、まだ自分自身に頼り、自分は大丈夫だと、高を括っているからです。
そして、自分を守っているのです。しかし、惨めな自分であることは誰の目にも明らかです。
(結) こういうわけで、「私は悪い者です。私は惨めな者です。私は裏切り者です。従って
行きたいと思っても、従えない卑怯者です。」と、へりくだるのです。そして、「主よ、お助け
下さい。こんな私に力を下さい。聖霊のバプテスマを下さい。そして死に至るまで忠実に
従わさせて下さい」とへりくだって求めて行くべきでしょう。私たちは、今この時も、
「砕かれた悔い心」を持っていないと、聖霊のバプテスマを求めることさえ出きません。
しかし、こんな惨めな自分しかないなら、そのうち放って置いたら、悪魔の餌食になる
だけです。だから、「主に従っていくために力を下さい。聖霊のバプテスマをして下さい。」
と言うのです。それでいいのです。「砕かれた心」こそ、聖霊のバプテスマを受ける入口です
から。 |