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 2013年5月12日 





『魂を砕く』




第Uテモテ3117





起) 「砕かれた悔いし心」について学んでいきたいと思います。

(承) さて、この中に記されているUテモテ3:1〜9の内容は、クリスチャンのことを

記しています。終りの時代になると、クリスチャンの多くが、自分を愛する者になり、

金を愛し、自分の力で、自分を立てて生きていこうとします。5節に記されているとおり、

自らを信仰深く見せながら、その実を否定する者となってしまいます。私たちでさえ例外では

ありません。イスラエルの民が、モーセに逆らったように、今日の多くのクリスチャンが牧師に

逆らって真理に逆らうのです。

 ですから、私たちは、それに気づいて主の前にへりくだり、
「自分さえも、そういうもので

ある事に気づき、自分は力のない罪人の何者でもない。」と知るべきです。
その砕かれた魂、

砕かれた悔いた心を学ぶために、私たちは20年間メッセージを聞いてきました。

しかし、その20年間学んできたことが、一人も分かっていないということが分かりました。

 先週の夜も同じメッセージをしましたが、それによって魂が砕かれたのは、小学校2年生の

義尽君一人だけでした。 彼は、純粋に牧師の話を聞いて、「自分は愚かだった。今まで、

真剣に先生の話を聞いてこなかった」と涙を流して、悔い改めたのです。では、皆さんは、

どうでしょう。肉で悔い改めることはあっても、御霊に導かれて本当に、魂が悔い砕かれる

という経験をしているでしょうか?皆さんの聞き方は、霊でなく肉で聞いています。ですから、

私は、皆さんの肉に向かって語るのではなく、心に向かって語りかけ、心を砕こうとしている

のです。表面的に語ってもしかたありません。根本的な、内側の魂に向かって語りかけてきた


のです。なぜなら、創造主は、人間は心底罪人であり、汚れていて、全身、心の底から罪人

であることを理解することを願っておられるからです。
もし、語られていることを霊で聞けば、

「あぁ、この罪について触れられているんだ。」ということが分かり、
「自分はこのままでは

いけない」と砕かれていくのです。
ですから、一人一人が霊で聞き、自分自身の魂が取り扱われて

いくかどうかです。創造主はその砕かれた魂を決して蔑みません。私は、そのように生きて

きました。だから、外側の、功績、働きばかり見る人との交わりが嫌になったのです。

「自分はイエス様の前に行きたい。そしてイエス様の前にあって力を受けて、イエス様の働き

に使ってもらえる者になりたい。」それを目指してきました。私は元々愚かな人間ですから、

主の栄光を表すことも、まともな人間になることもできません。だから、悔いし砕かれた心を

もって、主の力を頂くことを願うだけです。しかしながら、皆さんは、外側しか見ていません。

そういう人は、自分の外側が人から受け入れられればそれで良しとなるのです。それでは、

創造主の心に触れることは出来ません。自分の内側にある、心の中の醜さを主の前に隠して、

騙していることになります。主が本当に求めておられるものは、外側の格好つけた心では

ありません。ただ主の前に、「自分は本当に何もできない者です。自分は着飾っても、何も

できません。自分は愚かでした。」と、へりくだるだけです。霊で考えたら、それしかあり

ません。何故20年間学んで来て、それが分らないのでしょうか。

心のへりくだりを学べないのでしょうか。イエス様が、弟子たちの不信仰と心の頑なさをお責め

になったように、私たちをお責めになります。イエス様は愛の方です。だから叱るのです。

愛がなかったら、表面だけで付き合いますが、創造主は私たちの心と付き合うのです。


(転) では、私が何故ここまで本気になって皆さんメッセージするのか分かりますか。

それは、皆さんが20年間よくついて来てくれたからです(10節)。だから、本気で分かって

ほしいのです。そして、皆が約束の聖霊の力をいただいて、共々に働きを始めたいからです。

20年間というと、今40歳の人は20歳で、青春真っ只中です。その青春真っ只中を、この世の人と

同じように快楽を追い求めずに、ひたすらイエス様を追い求め、こちらに価値を置いて留まった

のでしょう。普通なら、とっくに諦めて、世の人たちと同じように快楽を求めて行ったこと

でしょう。その方が、肉は満足したに違いありません。でも、それを選択せず、よくついて来て

くれました。20年間、ひたすらイエス様にかけたのでしょう。世の方に心が向いたとしても、

世の方に向かわずよく留まったのです。その心のゆえに創造主も本気なのです。

なのに、これまでの話を霊的に心に止めないで、牧師の言わんとする本意をつかもうとしな

かったのでしょうか。もし、私たちに本気でその気持ちがあったなら、15年前、いやもっと前に、

主の前に砕かれた悔いし心を持ってイエス様にお仕えできたものに。

パウロさんは言いました。「私は戦いを勇敢に戦い抜き、走るべき行程を走り終えました。」

私たちも、同じように、走るべき行程を走り終えたいものです。私にはまだやり残したことが

一杯あります。だから、早く戦いを始めて、自分自身の走るべき行程を走り終えたいと

思っています。それを、皆さんと共にやると決めたのです。だから20年間、創造主も待って

いて下さったのです。

(結) パウロさんも、イエス様から傲慢を叩かれました。ですから、砕かれた悔いし心から

始まります。そこからスタートです。それをもたずして、私たちのスタートはありません。


もし、「自分も聖書に書いてあることを、私たちも同じように味わっていきたい。」と本当に

願うなら、自分を保ち続けるのか、あるいは、自分を捨ててイエス様だけを求めることを願う

のかどちらかです。ですから、心を定めて下さい。両方はありません。本気で20年間付いて

来たのなら、今日の話を霊で聞いて、自分自身の魂を砕き、聖霊を受け取りましょう。






                                      

  
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