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 2013年3月24日 





『生きた信仰者』


       ヨハネ黙示録3章14〜22節





(起) ラオデキヤの教会について見ていきたいと思います。

(承)さて、ヨハネは、7つの教会に手紙を書き送るようにと言われていますが、
これらの7つの

教会の姿は、その時代から今日まで、教会の中にある姿と見ていくべき
です。

すなわち、7種類の教会の姿は、現在のクリスチャンの姿であり、その
書き送られた目的は、

勝利を得るクリスチャンになるようにとの警告
です。現実に勝利を得ていないクリスチャンや

教会があり、私たち自身にも警告されている内容です。ですから、「勝利を得るクリスチャンに

なりなさいよ。そうすれば、約束された聖なる都エルサレムの住人となれます。」という

メッセージです。このように、この書を読む者と、この書のメッセージを聞いて心を留める者は

幸いなのです。そして、悔い改めていくための、具体的なメッセージが明らかにされている

のです。

(転) では、ラオデキヤの教会について見てみましょう。

その特徴は、「彼らの行いが熱くもなく、冷たくもない生ぬるい教会」という事です。

ですから吐き出そうと言われています。では、生ぬるいクリスチャンの姿とはどういうもの

でしょうか。そこでまず私たちは、信仰というものはどういうものか、根本的に理解しておく

べきだと思います。その心は、手にしていなくても、今現実に頂いていると信じることです。

例えば、その例として子供の頃、お父さんから、自転車を買ってもらえると約束をされ、

楽しみに待っていたことに譬えることができます。約束は受け手も、実際なかなか買って

もらえませんでした。その内、まるで忘れられてしまったかのような状況になってきます。

それでも
信じてじっと待つか不平を言うかどうか、と言うのが信仰であるということです。

というのは、私たちがイエス・キリストを信じたとき、私たちが抱いた信仰のイメージは、

「誰でも、その人は新しく生まれたものである」とあるように、信じたときに完璧な人間に

されると思っていたことです。

しかし、そうではなく、それはキリストの日に頂くものです。ですから、以前と代わらない

自分の姿を見てがっかりし、そんなものを、追い求めても仕方ないから、地上で手に入るもの

を求めた方がいいと腹を立ててしまうことです。そのようなクリスチャンに対して言われて

いるのが、「地上で手にしたものは、皆失ってしまうのだよ。だから、わたし(イエス様)

から、精錬された本物の価値ある金を買いなさい。また真っ白な汚れの無い白い衣を買い

なさい。そして、永遠と真実が見える目薬をわたしから買いなさい。」と。

 ところが、クリスチャンの敵であるサタンは、クリスチャンを生ぬるくさせるために、

現実を見せて喜べないように仕向けていくのです。私たちは、まだ罪の赦しも永遠の命も、

現実に目に見えるようにして受け取ってはいません。ですから、サタンは、「罪の赦しも、

永遠の命も、実際に手にしていないだろ?本当にもらえると思っているのか?」と、畳み掛けて

きます。そして、現実の罪と、過去の失敗に目を向けさせて失望させ、信じたって「ダメさ〜」

と思わせてくるのです。すると、永遠に対する期待感もなくなり、約束には価値が無いように

思わせるのです。これでサタンの勝利です。そして、私たちがその思いに同意した時、

不信仰になり、初めの一生懸命さを失って力も喜びも無い、生ぬるいクリスチャンとなって

いくのです。確かに私たちは、約束のものを手に見るまで、すぐに不平や不満を言います。

そして、約束を受けたのだから、もらうのは、当然の権利のように思います。

しかし、創造主の側から客観的に見たら、それは、わがままなのです。なぜなら、
与えられる

ことは恵みであって、当然ではないからです。それが分れば、そのまま認めていくのです。


罪人の
わたしたちの債務証書は、創造主が完全に破棄して、十字架に釘付けにされました

(コロサイ2章14・15)。ですから、私たちは、キリストの血によって、永遠の贖いを

受けました。ということは、その事実を信じて受け入れたのなら
私たちは自分で自分の罪を

償うために自分で何とかしようとする死んだ行いを止めて、ただ創造主のために仕えていこう


とする方向に向かって行けばいいのです(ヘブル9章12〜14)。

(結) 
クリスチャンとして、最初のホットな罪赦された喜びを持って、イエス様と共に生きて

いくための大事なポイントは、目に見えない約束を、そのまま受けたものと信じていくこと


です。

私たちが本気でもらえると信じたのなら、本気で信じていくのです。こうして、御言の中に

生きていくなら、生ぬるい信仰ではなく、生きた信仰者として生きていけるのです。 



                                      

  
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