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 2013年12月8日 





『私たちはゼロの人間』



ピリピ3116




(起)「私たちは、ゼロの人間である」ということについて学んでいきたいと思います。

(承) さて、ピリピ3章を読むとパウロさんは、「何とかして、死者の復活の状態に達したい。」

と言っています。そして、救いを獲得しようと、一生懸命努力していると言っています。

私たちはここを読むと、「やっぱり自分の努力次第か」と思わされます。ところが、エペソ2章5節

を読むと、「罪過の中で死んでいた私たちが、恵みによって救われた」と書いてあります。

この二つのことは、内容的につじつまが合いません。しかし、これは両方とも真理であり、

ここに真理の二面性があるのです。

(転) では、パウロさんは何故このような書き方をしているのでしょうか?

それは、ピリピ3:2に書いてあるように、私たちを転ばせようとする悪しき働き人たちがいる

からです。「特に割礼主義者に警戒しなさい」と書いてあるように、彼らは、「自分たちは律法を

守って、絶対主の律法の中に生きている。」と誇り、異邦人に割礼がないと救われないと教えて、

誇り高ぶっている者です。3節を見ると「真の割礼主義者というのは、イエス・キリストを誇るの

であって、自分自身の肉に依り頼む者ではない」と書いてあります。しかし、これは他人事では

なく、実は私たちも、自分自身の肉に依り頼んで生きています。例えば、砕かれた悔いし心を持つ

ことに関して、「砕くという行為を自分がちゃんとすれば、受け入れてもらえるが、それをしな

ければ、受け入れてもらえない」と思い、常に自分の肉により頼みながら、心を砕こうと考えて

います。即ち、絶対主の前に何かお土産を持って行かないと認めてもらえない、という感覚が

私たちにはあるのです。ところが、私たちはイエス様を信じた時、「自分は罪を犯さない人間

になりましたから、救って下さい」と言って、救いの中に入れて頂いた訳ではありません。

違いますね!私たちは、ただ罪人のままで、「イエス様が罪の贖いをして下さった」、ということ

を信じて、その世界に飛び込んで行っただけです。何かお土産を持って行った訳ではありません。

私たちは、100%罪人であり、何も差し出すことのできなかった者です。だから0です。イエス様が

罪の解決を全部して下ったから救われたのです。ですから、
私たちは自分の中には根拠を置けず、

イエス様の中に飛び込んで行くしかないのです。
また同じように、救われた罪人ですから砕かれた

心の世界の中に飛び込んで行くしかない者です。
私たちは、悪いことをやって叱られると、自分では

悪いと分かっていても、「それ以上言わないで!」と、怒られていることが嫌で心を閉じます。

しかし、
たとえそれでも、嫌だという思いを心に入れず、「怒られるのは嫌だけど、心を開いて

聞こう」とするなら、相手の言っている意味が分かってきます。そして、初めて心から謝ることが

出来ます。それが飛び込むということです。
飛び込めば、自分の罪を認めることになりますので、

皆からは白い目で見られるし、飽きられもし、恥もかきます。でも、イエス様は「それでいいんだ」

と言って下さるのです。即ち、砕かれた悔いし心をイエス様は軽んじないと言われます。

これを今、イエス様が私たちに教えようとしておられるのです。
私たちは「ゼロで、罪人で、

何も出来ない者」であるということを認めさせたいのです。
私たちがそうだからこそ、イエス様は

地に来て、罪の全ての贖いをして下さったのです。私たちは、この状態が自分にとって丁度なのです。

パウロさんも、そのことを味わいました。彼には、肉の誇りが一杯ありました。しかし、イエス様と

お会いした時、その誇りが全部空しくなり、自分が今まで肉に依り頼んでいたものが全て、

糞土のように思ったのです。

(結) 私たちは、ここからスタートです。そして、パウロさんが言っているように、天の御国の

中に入る恵みを、何とかして獲得しようと懸命に努めていく(12節)のです。何もない人間だから

こそ、「一生懸命やっていこう」という気持ちが生まれてきます。しかし、もちろん自分の力では

出来ませんから、聖霊の助けを受けてするのです。だから満たしが必要なのです。今年一年間、

一生懸命やりました。
「イエス様の栄光を表したい」という気持ちだけで、必死で

やりました。自分が出来るからというということではありません。イエス様に与えられた力に

よって、その働きを全う
、何とかしてイエス様が下さった救いの復活の状態に達したい

からです。

この考え方が、成熟した人の考え方です。私たちには、まず聖霊の満たしが必要です。

しかし、その前に必要なものは、空っぽの器です。ですから、私たちはゼロであることを認め、

そして力をいただいて、一生懸命やって行こうではありませんか!



                                      

  
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