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 2013年11月24日 





受けるよりも与える方が幸いです



使徒201738




(起)「受けるよりも与える方が幸いです」ということについて学んでいきたいと思います。

(承) さて、35節に「受けるよりも与える方が幸いである」という言葉があります。

これはイエス様が言われた言葉であり、イエス様の心です。イエス様は絶対主の御子であり、

初めから罪のないお方でした。その方が、あえて人間の罪深い肉の姿をとってこの地上に来て

下さり、本来私たちが受けるべき罪の報いを、十字架で全部受けて下さいました。イエス様こそ、

「受けるより、与える方が幸いである」という言葉を通された方
なのです。そして、そのことを

信じることによって、私たちは御国へと引き上げていただくことができます。罪人が御国に

引き上げられたとき、悲しみや苦しみや心の葛藤や、どうにもならないこの地上の苦痛の

世界から解放されるのです。頭の良し悪しや、財産の有無、地位名誉の保有など、天においては

関係ありません。絶対主は、外見ではなく、人の心を見てくださる方です。生まれながらの

人間が持つ能力、いくら能力があっても、その能力は罪の中にある能力で、自分の誇りに

なるだけです。ですから、主が見てくださるのは、砕かれた心だけです。もし私たちが能力を

必要とするなら、主から頂だいた能力を用いるべきです。それなら、誇ることはないでしょう。

このことは、イエス様を信じた時に、直感で分かり、「このイエス様に対してなら、心を懸けて

いける」と思ったはずです。イエス様も、「それで良い」と言って下さいます。


(転) では、私たちはそんな綺麗事の道を通していくことが出来るのでしょうか。実は

それが難しいのです。なぜなら、私たちは罪人であり、私たちの心の中に、いつもイエス様に

従おうとする心と、自分を誇り自分のことしか考えない自分中心な心があるからです。

私たちは、「自分中心な心がなくなれば、綺麗事の道を歩んでいけるのに」と考えます。

しかし、自分中心の罪の心は、いくら時間をかけてもなくなりません。私たちは、罪の弱さを

自分の中から取り除けることは出来ません。この世を去るまで、それを持っていくのです。

しかし、そこで絶対主が願っておられることは、そんな罪人の私たちが、遜って主の御心の方に

スイッチを押すかどうかということ
です。それをしたのが、殉教者たちです。彼らの中には、

拷問があまりにも苦しくて、辛くて棄教した者もいます。しかし絶対主は、自分中心な罪の

心を持っていても、主の御心に従うスイッチを押す心を、「その心の者を、わたしは見放さない」

と言って下さるのです。人間は自分勝手ですから、自分が受けることしか考えません。

しかし、殉教者たちは、「受けるよりも、与える方が幸いだ」という事を知って、その心を

殉教を通して最後に現して行ったのです。絶対主に通じる心は、この心だけだと分かったから

です。これが、人間が持っている、絶対主に表すことができる唯一の真実なものではない

でしょうか。「たとえ損をしても、命を失っても、主に従うスイッチを押します」という

心です。
それだけのことをイエス様はやって下さったのですから、罪人がこの地上で損を

していくのは当然のことであります。実は主にあって「損して、得取れ」なのです。だから、

罪人が罪の報いを受ける覚悟を持つことは、当然ですから、ただ罪の報いは受けるだけです

という心を持つべきです。また、クリスチャンになって間違えやすいことは、「自分が失敗を

して恥をかくことは、イエス様に対して恥をかかせることだ」と思うことです。

そして、如何にも自分が罪を犯していないが如くに弁解し、自分が罪を犯していない人間の

ように見せかけることです。そんなことは間違っています。
私たちは、一生涯罪を犯して

しまう罪の製造機なのですから、その報いは当然受けていくべきであり、そして遜っていく

スイッチを押していくべきです。イエス様は、罪を犯さない人間を生むためにお出でになった

のでしょうか。違います。イエス様は、罪人を救うためにお出でになったのです。


だから、そのイエス様の心を汲んで下さい。いつも自分ではなく、「イエス様はどう考えて

いるのかな」と察して行くのです。その心が出てくれば、「たとえそうであっても、

そうします」と従っていくことができます。私たちは、絶対主に対して、その心を最後まで

持って行くべきです。

(結) この後、狂暴な狼、容赦なく群れを荒らし回る者たちがやって来ます。

ですから、目を覚まして、今のうちにこの心をしっかりと身につけて下さい。牧師のどこを

見れば良いのでしょうか。それは、「受けるよりも、与える方が幸いだ」という心です。

この心を掴んでいかなければ、いつも自分中心になってしまい、主に仕えていくことは

出来ません。絶対主自身が、「受けるよりも与える方が幸いです」ということを、

御子イエス様を遣わすことを通してやって下さいました。私たちは、その絶対主の心を

掴んでいきましょう。そして、その心を表していきましょう。



                                      

  
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