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 2013年11月17日 





『自分の意思を明確に表して従っていく』



使徒152229




(起)「自分の意思を明確に表して従っていく」ということを学んでいきたいと思います。

(承) 実は、日本人は、非常に曖昧を好むという性質があります。日本語自体が、最後に

動詞が来て、否定か肯定かが曖昧に表現されるからです。

ところが、聖書にあるイエス様の救いは、曖昧なものではなく、はっきりしたものです。

イエス様は、絶対主の御子であるにもかかわらず、この地上に来て十字架にかかられました。

そして、その身代わりの死によって救いの道を開かれました。しかし、イエス様も初めは、

「この杯をわたしから取り除けて下さい」と祈られたのです。「こんな苦しい目に会いたくない。

皆のために祈るから、十字架につく前に天に引き上げて下さい」と言うことも出来たと思います。

しかし、もしイエス様がそうなされたとしたら、私たちの罪からの救いはなく、罪の代価も

払われることがありませんでした。しかし、イエス様は心が揺れる苦しい中にあっても、

ご自分の意志を明確に現され、「父の御心のままになさって下さい」と、死を目前にして、

毅然とご自分の意志を明確に決断され、贖いの代価を払ってくださいました。だからこそ、

イエスを絶対主の御子、救い主と信頼することが出来るのです。


(転) では、私たちの側の信仰についてはどうでしょうか。実は私たちの信仰も同じです。

イエス様を信じているということの明確な信仰の姿勢があって、救いの確信が持てます。

曖昧な信仰では、絶対主は、その心を信用してくれません。いつ、翻すか分からないからです。

ですから、はっきりとした信じる意志が必要です。絶対主は、私たち人間に、「自分で決め、

自分で判断することのできる自由意思」
を与えて下さいました。ですから、絶対主は、私たちが、

その「自由意思」をはっきり使って、絶対主の心を理解し、絶対主を真実な心を持って信じ、

信頼するのかどうかを見ておられます。絶対主は、ご自分の御子であるイエスを地上に遣わし、

そのイエスの命と引き換えにして人間の罪の代価を払うという、救いの計画を実現されました。

ですから、そこまでして下さった絶対主の心、絶対主のお気持ちを私たちが理解し、こんな

罪深い私たちの罪を贖うために、御子の命を懸けて代価を払って下さったお方に対し、それを

受け取って遜り、はっきりと従っていく砕かれた心を人間が持ったなら、絶対主は満足して

下さるのです。これが、絶対主と人間の関係です。絶対主は、行いで私たちを評価される

のではありません。人間の行いは、どこまでも罪人の行いです。ですから、行いによって

罪はなくなりません。ただ内側にある自由意思を、その心を、どのように働かせるかを見て

おられるのです。しかし、そこで、私たちの問題となるのは、「主を信じてはいますが、

自分の人生は自分の好きなようにやって行きたい。」という裏腹な気持ちです。
ここに、

「信じる」ということを、自分の都合で簡単にひっくり返してしまう信仰の曖昧さがあります。

それは、絶対主に対して、イエスを信じるという自分の意思を明確に表したことにはなりません。

なぜなら、絶対主を信じたのなら、自分の気持ちより、絶対主の御心を第一とするはず

だからです。イエス様は、そうされました。しかし私たちは、絶対主を信じておきながら、

自分の気持ちを優先しようとするのです。それは、主への曖昧な心を持っているからです。

そのようでは、艱難時代に入ったらどうなるでしょうか。艱難時代は、イエス様を信じて

自分の身を投げ出すか、イエス様を信じるのをやめて666の印を打つか、どちらかです。

世の終わりでは、曖昧な心は許されません。しかし、今は恵みの時、救いの時です。

ですから、艱難時代が来る前に、自分たちの信仰を明確にしておく必要があるのです。

自分の心の中で、「私はこうします。どんなにリスクを負おうが、私はイエス様を信じる

道を選択します。たとえ拷問を受けても構いません」という真底のはっきりとした心が必要です。

絶対主は「その心、それでいいんだ」と言って下さいます。28節を見ると「聖霊と私たちは〜」

とありますが、いくら聖霊さまの導きがあっても、自分の自由意思を働かせて、それに

同意しなければ従うことができません。同意して初めて、そこに本物こ心が表れます。

また、ヨハネ211517を見ると、イエス様はペテロに「あなたはわたしを愛しますか」

と、3回質問をしておられます。それに対してペテロは、「私があなたを愛することは、

あなたがご存知です」と、3回共、主に預けた言い方をして、自分の意思を一つも表わし

ませんでした。だから、ペテロはその後で、ヨハネのことを「この人はどうなのですか」と

聞いたのです。しかし、主は「他人のことは関係ない。あなたはわたしに従って来なさい」

言われました。つまり、「自分の意思で決めなさい」ということです。


(結) 私たちの教会は、この世の終わりに、綺麗事の信仰がなることを証ししていく

教会です。
綺麗事の信仰とは、「たとえ自分が損をしても、リスクを負っても、イエス様を

信じていくということ」です。
私たちは、先のことを頭で考え、「できないと思えば、

止めとこう。」と考えます。普段から頭で聞き、自分にとって都合の良いこと、出来ること

だけをやろうとしているからです。その頭の使い方は、もう通用しません。主の御心なら、

後先考えずに、主に従っていく勇気を持って選択していかなければ、手遅れになります。

イエス様は、このメッセージを私たちの教会に与えて下さっています。ですから、

「どんなことがあっても主に従っていきます」という砕かれた心を持って、はっきりと

従っていきましょう。




                                      

  
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